2021/7/25
意志のきっかけ
五感で何かを感じようとした時、
その後で感じる刺激はその感じようとした刺激を
意図して感じることができる。
では何をもってその感覚を感じようとしたのだろうか。
今回は、この意志のきっかけとなる要因について考えてみる。
例えば今の右手の人差し指の先の感覚の状態を感じようとした時、
その次の瞬間には何か意識のようなものが、
右手の人差し指付近に集中するような感じがして、
その次の瞬間にその右手の人差し指の感覚を認識することができる。
今回考えるのは、
意識的に何かの感覚の刺激を認識することではなく、
その前段階である、なぜその感覚の刺激を認識しようとしたのかということである。
例として感覚の刺激を認識することを挙げたが、
これは思考における記憶の想起や、
目的を作り出したり、目的を遂行するために行う思考や行動にも関係してくる。
つまり、
何か知能が知能としての活動を行おうとした時、
そのきっかけとなるものについて詳しく知ろうということである。
これが分かると、知能の活動のほとんどが説明がつくようになる。
受けた刺激に対する反応については、これまで何度も書いてきたので
ことさら説明するまでもないが、一応簡単に書いておくと、
受けた刺激についての知能の反応は、
その状況と状態の変化への適応を最大の目的とするということである。
前回までの考えでは、
この思考の前段階にあるものは、目的であり、その目的を完遂するために行う行動の
過去の記憶からの参照する経験から発せられると考えてきた。
つまり、自身が経験してきた目的とその目的達成のための行動の経験、記憶から、
今回、新たな目的が生じた際に、その目的達成のために参考として想起した
過去の経験から効果がありそうな、つまり、価値の高そうな記憶・経験を優先して
想起して参考にしようとしているということである。
その記憶を思い出して、目的完遂に関係したかとか、意味があった意味が無かったなど
それらはその思考したという記憶の中での経験としてまた記憶され、
次回に参考にされる。
つまり、考え方そのものが、思考の経験として記憶され、また次回の似たような
目的が生じた時に参考として想起されることになる。
目的が解決したなら、その記憶は成功した例、価値ある例として記憶され、
また次回も用いられやすくなる。
失敗したら失敗した例、価値のない例として記憶され、
次回は用いられないか、忌避されて別の方法を選ぶための経験となる。
目的自体は、達成する事で価値ある何かを得ることができる。
これが知能が目的を作り出し、実行する要因である。
何か得るものなしに目的はできないし、行動する事もない。
それが一見勝ちが無いように思えてもである。
知能が目的とするのは必ず価値がセットとなる。
まあ価値があるからこそ目的となりうるのである。
達成する価値も無いのに目的になることはない。
知能が働くきっかけとしてこの目的とその価値を得る事が
知能が働く原動力となる。
そのために、知能は何とかして目的を達成し、達成した価値を得ようとするわけである。
その目的達成までの過程で行われるのが、思考であり、
その思考におけるきっかけは、目的とその達成のための知能の活動であるといえる。
だから、目的を持った時点で、意識して何かを考えたり、
意図して何かを認識しようとする必要はなく、
目的を持った時点で知能はもうそのための活動を行っているのである。
だから、意識せずに次の思考の参考となる記憶が想起されたり、
何か思考の例にするために何かの刺激を認識しようとしているのである。
前回までの考えをまとめるとこういうことであった。
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で、この思考の前段階のきっかけをどのように捉えるか考えてみたが、
普通に考えると、というか捉えた時点ではもうすでに「考えた」という
きっかけを経ている段階になっているので、きっかけは後から認識できるものになっているはずである。
ただ、それは記憶に残っているのか、残っていないのか分からないが、
残っているなら後から認識できるはずであるし、
残っていないならもう捉えるすべがない。
とすると、これまでどれだけ考えても思い出そうとしても
そのきっかけとやらを認識している気がしないのは、
そもそもこのきっかけは、認識できる対象でないということになる。
つまり、このきっかけは刺激ではないか、刺激としては弱すぎて励起しても
認識できる対象にならないということになる。
通常は忘却された記憶であっても、わずかにでも他の刺激の記憶と関連があれば、
関連する刺激の励起によってこの記憶された刺激は認識される可能性を残している。
しかし、そもそものきっかけが刺激でないならば、
励起のしようもない。つまりは認識できないということになる。
あと知能が持っているものの手駒として残っているのは、
記憶の関連パターンと、現在の自身の状況・状態である。
記憶の関連パターンというのは、これまでの知能が生命活動をしてきた過去の経験によって、
その記憶された刺激がそれぞれ関連して記憶されるため、この記憶の関連パターンができる。
つまりは刺激とそれによって励起されるシナプスとそれを関連して繋がれる軸索の繋がりである。
このパターンはそれぞれの知能によって異なる。
知能毎に同じ刺激であっても感じ方が異なるように、
それぞれの知能が持つ刺激の記憶の位置や配置、その関連はまちまちだからである。
現在の自身の状況・状態というのは、
今の自分の知能の全体的な状態ということである。
前の瞬間に何を認識して、今、五感にどういう刺激を受けているか、
そういう現在のステータス、総合的な知能に関する状態のことである。
あ、でも状態であるなら刺激の状態でもあるので、
後から認識することはできることになる。
であれば、状態はここからは除外されることになる。
となると、記憶の関連パターンは認識できる対象にないので、
今有力候補であるのはこの記憶の関連パターンということになる。
特定の刺激の記憶が想起できても、この関連パターンは認識できない。
よく何かの匂いでもって、昔の記憶がよみがえってきたということがあるが、
記憶の関連はこういうことである、ある刺激に対して関連している刺激があり、
ある刺激が励起され認識されると同時にその関連によってもう一方の刺激が励起され
認識される可能性がでてくるというものである。
また、この場合における関連パターンというのは、
ある刺激に対しては1対多の関連であり、この全ての関連パターンは
認識することができない。特徴的な刺激であっても、どれだけの関連した刺激を記憶しているかなど
自分でさえ分からない、認識できないのである。
だから、何かの目的に従って思考したとしても、
自分自身が何かの目的をもって思考した際に、何の刺激が励起されて思考するかは
自分でも分からないのである。
しかし、記憶の関連パターンは各知能で固有であるので、
思考するパターンというは各知能がそれぞれ固有で持つことになる。
こういう時に自分はこう考える事が多い。そういうパターンは決まっていることになる。
全て同じように考える事はなく、また記憶の関連は時間の経過と経験の積み重ねによって
変化するので、いつでも同じ記憶の関連パターンであることはない。
もちろん思考のパターンも変化する。
また、周囲の環境と体内の状態から受ける瞬間的な脳内以外の外的な刺激によって
その関連する刺激に影響する事もある。
例として、これを思い出したから、こっちも思い出したというそういう記憶の関連は
後から認識することはできる。
しかし、その最初の「これ」について関連する全ての記憶の関連は後からも認識できない。
というか分からない。
関連は有限ではあるが、何と結びついて関連して覚えているかそんなことは自分でも分からない。
他に認識できない対象があるだろうか。
五感と刺激に関係せず、脳内に存在し、脳内に保持できるもの。
本能はこれに当たるだろうか。
反射も知能とは少し異なる経路だが、生命体としての機能において、
その行動に関係するものとしては対象になり得るだろうか。
本能についても考えた事はあるが、
人間の本能が知能に関係している要素はあまり多くない。
野生の動物などであれば、知的そうな行動であってもほとんど本能的に行っている事もある。
しかし、本能の行動は知的な生命体と見えるが、あまり考えているようには見えない。
そうするべくしてそうしているだけに見える。
考え方としては、有限な知能の要素に対して、
認識できる要素を除外していけば、残りは知能が認識できない要素となる。
これの内の何かが知能活動のきっかけになっていると考えることが出来る。
さて、他に認識できない知能の何かがあるか考えてみる。
刺激として受けたり、記憶の想起によって認識される刺激については
その認識の前に何に関連して想起したかという事も認識できない。
刺激は一点だけの刺激ではなく、例えば左手の平の感触と、
顔の右ほおの感触は感触という刺激においては同じだが、
場所が異なる。これは脳内においては感触を認識するための刺激として
送られた信号は、この感触の信号以外に体のどの位置から得られたものであるかという
情報を含む、またその感触の強さや、叩くやなぞるや刺すというような種類の情報も含むことになる。
これらの刺激がその刺激を判断し認識する脳内の部分に送られて、
それぞれの信号がそれぞれの意味を持つ部分のシナプスに送られた後、
そのシナプスに関連して繋がっている他のシナプスにもその励起された情報が送られる。
そして、その励起によって次の瞬間に他の刺激よりも強い刺激であったときに
この感触という刺激は想起と同じ仕組みで認識され、
その刺激が存在するものとして自分が感じることになる。
これは通常の刺激の認識システムにある通りの働きであり、
ここで関係するのは刺激の認識とその刺激の記憶の関連パターンということになる。
ここでふと思ったのだが、
これは一般的な体内体外から受けた刺激に対する認識であり、
記憶にある刺激の想起も同じしくみである。
しかし、よく人間が想像によって認識する刺激についてはどうなるか、ふと思った。
例えば、実際には過去に経験した事の無い刺激、
誰か想像的な人物がいるとして、例えば芸能人であったり有名人であったり、何かのキャラクターでもいい
この人物が、自分の名前を呼ぶ声を想像できるだろうか。
実際に自分の名前でなくても、当人の声や別の会話を聞いたことがあるなら
想像で再現できるはずである。
これはどういう事であろうか。
思考における仮定や創造的なことを考える事と通じるはずであるが、
これは実際には経験したことのない刺激であり、
それを知能が作り出したことになる。
つまりは、声の音質や抑揚、しゃべりかたの癖を刺激同士で関連させ、
それに自分の名前の読み方の音声を合成し、脳内で作り出し、
それを励起して想起、認識したからである。
今ここではこの課題に対する例として挙げ、
その検証として実際に行ってみた。
これができるというわけであるので、創造的に何か新しい刺激は生み出せるということである。
このきっかけというのも、目的としてそれを創造しようという目的があり、
そういう刺激に価値があると考えてそれを想像した。
きっかけは実証であるが、その大本にはこの課題について思考する目的がある。
少し話がずれたが、これは想像する前は認識できない対象であるが、
想像後は認識できる刺激となる。
これは、認識できない何かとして対象となるだろうか。
認識できない何かを対象とするとき、
本来存在しない刺激の対象を作り出す、生み出すことは
思考のプロセスの1つの方法ではある。
仮定などもこれに含まれるが、
もともと記憶にはない刺激であり、認識は後からできるが、
結果的には認識前のきっかけにはならないだろう。
意志のきっかけとは少し意味が異なるか。
思考する方法の1つに例を挙げたり、仮定を作ったりすることはあるが、
これはまったくのあてずっぽうの例や仮定ではない。
必ず最初にある思考する目的に沿って、それの思考の目的の完遂を目的として
参考になるものとしての刺激を作り出すことである。
それを認識することによって、その思考の手順を自ら試して作り出して記憶して、
その目的である思考の参考にして答えを出す手助けにしようとしているのである。
想像や空想、創造、仮定、仮想、実際に存在しない刺激を
既存の記憶にある刺激の新しい関連によって作りだし、認識し、記憶する。
何か目的に合ったそういう新しい刺激の想像は思考の方法であるし、
特に目的がないということはありえないが、芸術などにおいて、
自身の認識のある適当な状態を創造的に刺激を作りだし認識することは、
人間独自の知能の働かせ方であるのかなと考えた。
少し頭が疲れたので
今日はこの辺で。
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