2021/7/24

なぞる認識と価値の根源

認識は全ての感覚の刺激の知覚において時間差がある状態で行っている。
つまり、本来の刺激を受けた瞬間から時間をおいてなぞるようにして
刺激の認識を行っているということ。
また、
価値の根源にあるのは、快楽や満足などの感覚的な充足感である。
それは、特定の価値という知識などではなく、
本来の快楽や満足などの感覚的に知覚する要素としての刺激に関連した
他の刺激を価値のある刺激として記憶し、
この記憶した刺激の要素に多く関連して記憶された刺激が
価値ある刺激として記憶され、この刺激を受けた時に価値があると認識する。


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なぞる認識

認識は全てが刺激の発生から認識まで時間差が生じる。
指先の刺激が刺激として認識されるまでに僅かながら時間が必要となる。
認識した瞬間はその指先の刺激が認識と同時に受けたものとして感じられるが、
実際は僅かな時間差がある。

世界の人間が同じ時間差で認識している世界は皆にとっても同時に
存在するが、まれに集中したり、走馬灯を見るというような状況下において
世界がゆっくり動いていると錯覚することも起こる。

自分の右手を見て、手のひらを反したり、握って放してみたりして
この見ていると認識している視覚の刺激とは実際の動きとは少しずれているはずである。
しかし、まあ動かすという動作自体も動かすという認識の後で神経に動かす信号が出ているので、
これも時間的に少し遅れているのかもしれない。
結局、認識した見た目と動かしている手に時間差があるとは認識できない。

そのずれに着目して、
昨日まで考えていた意識の向かう所について考えてみると、
何かをしようとか、何かを認識しようとした時の知能の働きは、
その何かをしようとか、何かを認識しようとした時にはすでに
頭の中でその準備は済んでいて、逆に済んでいるから
その後の瞬間に、何かをしたり、何かを認識したりできるということである。

つまり、思う前にはもうその思う準備は済んでいて、
その準備をなぞるようにして認識は行われているのではないかという事である。

だから、昨日まで考えていた意識の向かう所、そのきっかけはどこにあるか、
何であるかという答えは、この認識のなぞる手間にあるものではないかと考えた。

そこに何があるか、そこにあるのは記憶と意識、環境と自分である。
記憶は全て刺激の記憶と、刺激の関連の記憶である。
意識はその瞬間まで行われていた刺激の連続した認識の状態である。
環境は体の表面で隔てた外側にあり、
自分は体の表面で隔てた内側である。

逆に言えば、これしかない状態で次の意識の向かう先を考えればよいということである。

環境や自分は刺激の発生源であるので、その直前の認識される前の刺激しか関与できない。
もし、意識に影響する可能性があるとすれば、認識した直前の刺激である。
これから認識しようとしている刺激はもう感覚器官に受けてしまっているはずである。

記憶は知能が持っているというだけのものであるので、
直接影響するのはその瞬間の前にすでに励起された状態にある刺激であるが、
これは刺激された状態にある記憶ということなので、記憶自体は自身が直接影響する事はない。
であれば、最後に残るのは、意識である。
意識は連続する刺激の認識であり、脳が、次々と認識しようとしている刺激の
繋がりである。
意識を一本の線のように考えた事もあるし、
丸い輪として考えたこともある。
線や輪は一部が高くなったり低くなったりする刺激の強さとして表現される。
今思ったがチューブ状の意識という考えもありそうである。
寝起きから広がり、各刺激によって輪の一部が高くなったり低くなったり、
そして寝る頃には輪が収束するというような感じである。

まあそれはいいとして、
核心を言うなら、意識は全て認識した後の刺激の連続であるので、
自らが意識していることを認識することはできる。
しかし、意識の先にある次に認識されようとしている刺激については
認識される前の刺激であるので自分はその先にあるものとしての認識はできない。
つまり、全ては事後の刺激の認識しか知ることができないのである。
次に認識されるべき刺激が何になるのか自分でも決める事はできない、
そういうことになる。
だが、それでも自分は意識的に次は右手の人差し指の感覚を認識しようとして
その触感を認識することはできるし、次は右を見ようとして頭を右に向けることもできる。
この、認識と少し先にある次の認識されることになる刺激の間にあるものは何であるか、
そう考えながら、自分の次に考えて認識する記憶の刺激は何なのであろうか、
そういう事を考えながら、仮にと考えると、
そこにあるのが目的であり、目的を作り出すきっかけとなる価値、
で価値は何であろうかと考えると、最終的に快楽や満足などの充足という所に
行き着くのではないかということである。

価値の根源である生命としての充足感。
快楽や満足などの刺激の意味する価値。

人間にしてもたの知能ある生命にしても、
それが欲しいがために生きていると考えられる。

人間は知能や記憶が複雑化しているので、
充足感、快楽、満足などの自分にとって肯定的な好意的な刺激が多く関連していれば、
それは価値あるものとなる。
例えば皆が欲しいお金はもちろん価値があるが、愛してやまない人から受けた仕打ちにも価値を感じる。
要するにその対象となる刺激に関連する要素の刺激が価値があり、肯定的、好意的なものであるなら
それは価値ある刺激となる。
その辺で拾った石でも好きな人からもらったら宝物になりえる。

ちょっと拡大解釈したが、
まあとにかく次に認識しようとする刺激は、
自分にとって意味のある、価値のある刺激である。
思考しているなら、思考の助けになる刺激であり、参考になる刺激であり、
それを認識すれば、思考の手助けになると自分が価値を見出しているからである。
前に私が考えるときに最近「赤いリンゴ」を例に出してということが
あったと書いたが、これもこの「赤いリンゴ」を例にして考えようとしているというよりも、
その少し前の段階の認識、意思ににおいて、次は例を出して考えてみようという
知能の状態にあったというわけである。
次は例を出して、では例には赤いリンゴを想起して、これに関連する要素があるか認識してみよう、
と同時に少し遅れて、よし、例を認識した、赤いリンゴを認識した、関連する刺激の要素は認識されたか?
という時間のずれをなぞりながら認識している、そしれその認識の連続が意識であるということである。

ここでの、刺激の認識以降のシステムは知能としては半自動で起こるただの認識動作のみである。
特別意味があるのは、その前段階の
「例を出して、例に赤いリンゴを想起して、これに関連する要素があるか認識してみよう」
である。
これは、私が持つ思考の手順の方策の1つであり、
思考する方法として私が持っているものである。
これは、思考するという記憶の中にあるもので、過去にこういう思考を行ったという経験の記憶でもある。

思考する方法を知らなければ、思考する事はできないし、
もちろんそれを記憶に留めていなければ想起する事もできない。
つまり、思考も何かを思い出すように認識される記憶であるのではないかということである。

それならば思考しようとする状況になった時に、記憶を思い出すのと同様に、
思考するパターンとして記憶を想起し、認識し、
それにそって他の刺激を想起しながら思考を行うというわけである。

さらに上位に思考の何かがあるとするなら、それは記憶に持っている目的や習慣という記憶ということになる。

つまり、知能が刺激を受け、多くの刺激を記憶し、知能として記憶が成長するにつれ
価値を得ようとする目的や習慣、そういう記憶を実行するための方策として、
これも成長過程において、思考などの方策を経験し、記憶していくということではないかというわけである。

実際、あまりに知能が複雑に見えるので、
知能の働きが見えないようであるが、細かく考えてみると、
思考や生き方、そういうものも経験として記憶してきた物を参考にして
行っている。
記憶をなぞって行っているものではないかということである。

生まれた環境と時代、自分の体の能力において、
生き方はもう決まっているのかもしれない。
それでも多くの決まっている人との関わり合いの中で
好みによって自分で選び、その結果が自分らしく生きることになるのではないだろうか。

時間がないので今日はこの辺で。


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