2021/7/23

意識の向かう先

068の意識の向かう所でも考えたのだが、
もう少し意識や思考の辺りの刺激の認識について考えてみる。

一応、068では意識や思考は目的ができることによって、
意識や思考の働くきっかけとなり、
知能がその目的を達成するための準備として
様々な目的に関連した記憶の要素を盛んに励起させ、
新たな刺激として答えが出るように様々な刺激を励起することで、
新たな刺激の関連が生じ、その中で意味のある価値のある刺激が
認識できたときに、その目的の答えが得られたと認識され、
これによって
その意識や思考が働いていると感じるということであった。

だいたい知能の働きとしてはこういうことなのであるが、
何となくまだすっきりしない要素がある。

一番の気にかかる点は、
何かを思考している際に、例として頭の中で認識される要素は
何をきっかけにしているかということである。
上の説明だと、思考している目的に関連する要素が様々に励起されて
その中で答えに近いというか、答えとして価値があると認識される
刺激の関連が、新たな答えとしてのまとまりとしての刺激の塊、
記憶の対象となるのだが、
その過程にある、「例えばこういうとき~」というような
例を使って考える事がある。
私が良く例に使うのは何か思考したり、刺激を認識したりする例として
「赤いリンゴ」をよく使うのだが、
これは実際の目的とはちょっと関連が無かったりする単なる例であると
認識するのだが、これにも何か使うきっかけがあるということなのだ。
まあよく使うから次の思考の際の例にも使われるという考え方が
068で説明した思考に関連した刺激の関連した励起ということなのだが、
まったく関係の無い対象を例にすることもあるわけだ。
今「白いはんぺん」を思い浮かべたのだが、まあ語呂が似ているとか
色と物体という点では関連していると言えなくもない。
それはなにゆえにその例として励起され認識されるのだろうか。

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ちょっと話は変わって
今日刺激の減衰までの時間までを考えてみた。
思考の一環として、前日に一度励起され認識された刺激がどのくらいの時間の間、
次の励起を受けて認識される対象となる刺激となりえるのだろうかということである。
例えば朝目が覚めてから周囲の状況を確認し、今日の目的を認識するまでの
行動を考えた際に、それでは前日との比較で、今日のスケジュール、目的を考えていると
思ったわけだ。例えば前日が休日であるのなら、今日は仕事に行こうということになるし、
翌日が休日であれば、今日は寝た後で明日の朝の目覚めの時間はあまり気にしなくても良い
という予定の目的の認識となるということである。
もし、前日の状況と、今日の状況の差について認識できていないと、
あれ、今日は仕事へ行くのか、今日は休みなのか、認識ができないことになる。
普通は、カレンダーなど見なくても、ああ今日は仕事だとか、今日は休みかとか
認識できている。それは、目覚めた前日の認識された記憶、刺激が残っていて、
今日の認識と比較する事によって改めて今日の予定が認識されるということである。
であれば、前日を認識していた刺激は、今日も完全に減衰して認識できないほど弱くはなく、
ある程度刺激の強度は残っているのではないかということである。

または、昨日の認識はまた別の所にある刺激の記憶として存在して、
ということになるのだが、その都度その都度、個別に刺激の認識を分けておけるほど
複雑な知能のシステムにはしないだろうなということである。
であると、やはり一度認識された刺激の要素は、ある程度長時間その刺激の状態は
保たれていると考えるのが自然となる。

スケジュールとして管理するほどの長期ではあまり記憶として刺激を保持しておく意味はないし、
実際二日前ほどの比較をしようとした場合、私はあえてどうだったかなと考えるほどの
意識を傾ける必要があった。自然にこれが行われるだけの刺激が残っているなら、
もう少し簡単にできるはずなので、やはり前日の時間の間で、
刺激がある程度保持されているようである。
そうすると、刺激の保持は睡眠を含んで10~20時間、もしくは
睡眠を1回挟んだだけの間の時間とも考えられる。
そうすれば一度睡眠を挟んだ時間の認識ごと、という時間の間隔であれば、
知能としても認識しやすいし、感覚的にも前々の睡眠の前の時間の認識は
かなり弱い刺激であるようなので、となると、やはり、
一度睡眠を挟む前の時間までの刺激はある程度保持されていると考えられるだろうか。

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では話を戻そう。
何かを考えている時に、例えばという例を思い浮かべることがあるのだが、
これは何をきっかけにして思い浮かべているのかということである。

素材は相変わらず自分の記憶の中にある刺激だけである。
それを例としての刺激として認識するに至るきっかけとは。何か。
何か知能が意図してそれを励起しているのか。
偶然ということはないだろう。自身の認識としては、
それを例として認識しようとしているのだから。
認識が刺激の後からやってくる、というのは大前提なのだが、
その刺激を選んでいる存在は何か。
これが、本当の意味での意識の向かう所なのだ。
私が意図してそれを認識しようとしている。
その意図の解釈。これこそが知能の、精神の中心にあるものと考えられる。

対象は知能の中の刺激のみ。
そういうことだから、答えは本当に知能の中の刺激ではあるのだが、
その出始めというか形態というか、その状態が今は分からないのである。
どのような刺激の状態で、それをきっかけとするのか。
すでに刺激が関連してあって、価値として先に存在し、認識されるのを待っているのか、
個別の刺激としてまだ関連を持つ前の状態なのか、
これはあまり考えたくないが、魂のようなものがあって、これが選んでいるのか。

自分らしさ、自分の考え方のようなものは、それぞれが持っていて、
それによって考えているようである。
そういう自然な考え方であるのなら、わざわざ脳内にある何かがきっかけで、
と考えなくても済む。
まあ恐らくということになるのだが、やはり思考には傾向があって、
その傾向は自分らしく考えるということになっているのだと思う。
例えに出した赤いリンゴについても、白いはんぺんについても、
自分らしく考えてその例を挙げると赤いリンゴであったり白いはんぺんであったりする。
そう考えるのが自然である。
他の人は他の例を挙げるであろうし、
それぞれの知能が持つ知識や記憶、刺激についてはまちまちである。

要するに結局068とは大差ない答えに近づいていく事になる。
思考それ自体が後天的に作られたものであり、各個が持つ思考は
その記憶が異なるのと同じように異なるということである。

今回は書いている途中であまり自分自身でよく分からない文章の内容であった。
まとまりがないと認識している。
アプローチとしては068の再確認のために、
別の方法を使って再確認、内容のチェックを行おうとしたということになる。
で、結局は、思考のきっかけについてのはっきりとした認識はできなかった。
おそらくやはり068のように目的があって、それを達成するために
知能は色々と記憶を刺激を励起させ、新しい価値ある刺激の関連物を認識しようとしている
ということであった。
その過程で、赤いリンゴが出てきたり、あえて違う例を考えて白いはんぺんが価値があると
認識したりということであった。

異なる人間が同じ問題に対して異なる考えをし、異なる例を挙げ、
異なる認識をし、異なる行動をとるのは、その異なる人間の知能が異なる、
つまり、異なる刺激の記憶を持ち、異なる刺激の関連を持ち、異なる知能を持っているということである。
皆が皆、赤いリンゴを例にすることはないというわけである。
まあその辺りが、思考するというシステムにおける思考のきっかけを見つけるためのカギになると
いうわけである。
自分以外の誰かが、思考するのにおいて、何か例を挙げる。
そのきっかけとなるのは何か、思考しているという状態はお互いに同じであるし、
例を挙げるという状態も別に知能毎に違っていることはない。
例を挙げない場合もあるが、それは自分でもある。
もし知能が思考する際中に例を挙げるなら、という状態においては、
知能毎の差というのはほとんどないはずである。
思考能力とか、思考する経験とか、思慮深さみたいなことには左右されず、
この思考の際に例を挙げるという考え方はどんな知能でも似たようなシステムであろうと考えられる。

とすれば、その例を挙げるというきっかけも同じようであると考えられる。
が、その例は恐らく知能毎に異なるはずである。
であれば、きっかけまでは同じような共通するシステムで知能が持っているということになる。
が、きっかけ以降の思考についてはそれぞれの知能で異なってくるということになる。

つまりだ、「思考する」それ自体は知能がそれぞれ同じようなシステムで持っている機能であると言える。
思考のきっかけについても、同じようなきっかけとなる要素があって、そこまでは知能によって
共通の機能であるということである。
しかし、その後の「思考した」後に認識される刺激については、それぞれの知能が持つ刺激の記憶、
刺激の関連によって異なり、結果、それぞれの知能が出した思考の結果は異なることになる。
この結果を見て、また第三者はそれぞれは違う「思考をした」と感じることになる。
ただ、重要なのは、思考した結果の違いではなく、知能が持つ刺激や関連の記憶でもなく、
「思考する」機能そのものである。

だから「赤いリンゴ」には思考を理解する上で意味はないということになる。
思考は何のために行うのか、そこが重要になる。
思考は、まあ前に書いたものの繰り返しになるが、現在の状態状況に不満のある要素に対し、
それを解消する存在の認識を行おうとする知能活動ということである。
不満や課題に対する、相対する存在となる刺激の関連を認識しようとする試み。
それが思考であり、その途中に行う知能活動は思考活動の一環ということになる。
根本にあるのは、「欲求に対する解消」「欲求の解消」こういうことである。
その過程はあまり意味がないし、その解消方法も後天的に学ぶ事でもある。
知能は後天的な機能という言い方もできることになる。
幼子が欲求の解消に行うのは不満の表現だけである。
社会的な、他者とのかかわりの中でその欲求の解消をしようとした時に学ぶ事が
思考ということになるだろうか。
例を挙げる事もおそらく後天的に学んだことである。

ということは、となるが、
思考は、それ自体が学んで覚える事であるということになる。
しかし、その仕組みとしては、手持ちにある刺激と刺激の関連、その記憶を使って、
新しい刺激の関連を作り出すこと、この新しい刺激の関連を認識し、
その価値があると認識できれば、それが思考したという感覚で認識されるというわけである。

思考の能力はそれぞれ異なるし、同じ課題や問題についても得られる答えは異なる事が多い。
それは刺激と刺激の関連の記憶が各自で異なるからであり、当然のことである。

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さて、話を戻して、「意識の向かう先」について考えるとしよう。
連続した刺激の認識が意識である。
であれば、意識の向かう先は、連続した刺激の認識のその先ということになる。
刺激の認識は、その認識の直前までに脳内で励起された刺激の内、
もっとも強い刺激の関連体が次の認識の対象として認識される。
それを認識することで意識があると自覚できる。
これを繰り返す中で、その次に認識される刺激が特定できるか考えてみる。

対象は知能の、脳内にある刺激と刺激の関連、その関連体についての記憶としての刺激の塊だけが
対象となるので有限ではある。
体内からであろうが、体外からであろうが、一度脳内で刺激として受けたのち、
その関連する刺激との刺激の関連体が意味のある価値のある対象として想起されることで
認識の対象となるため、体内体外の区別する意味はない。

次の瞬間に最も強い刺激となることだけが重要となる。
この時点で、何か意図が働くとしたら、次に認識されるべき刺激に対する励起の強さということになる。
現在で最も強い刺激として認識され、励起されている刺激は、その関連する刺激についても同様に
刺激することになる。すると、現在認識している刺激の次に認識される可能性のある刺激は、
今認識している刺激に関連した刺激か、体内、体外から知覚した刺激によって刺激された刺激と
その関連する刺激によって関連している刺激の関連体が対象となる。
今脳内で認識された刺激に関連した刺激か、体内から受けた刺激によって励起された関連する刺激か、
体外から受けた刺激によって励起された関連する刺激か、この3つが対象となる。
この3つの刺激の内、1つまたは2つ、または3つ全てが関連する刺激が次の認識されるべき刺激となる。
体内または体外からの刺激は刺激としては割込みの優先度が高い刺激であることが多い。
生命としての個体の維持に危機となる要因が高いからである。
この場合は、何か行動したり、思考したりを中断してそちらの刺激の対処を優先させることになる。
同時に複数の刺激が認識されることは無いので、2つ以上の同等の刺激を受けた場合には、
それぞれの刺激に対しての価値、優先度によって優先される刺激が決められる。

命の危機などが無ければ脳内だけの今認識している刺激の関連する刺激が次も認識されることになる。
これは、目的の達成のための刺激の認識である。
基本的に生命の個体はその環境の状況や自身の状態から受ける刺激を優先しない場合は、
その行動目標とも言える目的に従って行動する。
目的は自己保存と生命の維持を優先する行動であり、それらの内、
満足な状態でない対象について、つまり不満のある状態を解消するという事について、
それを解消する事を目的とする。
目的には現状としての不満のある状態の刺激の認識があり、
それを解消しようとする満足な状態、つまり不満の相対する価値ある状態を刺激として認識しようとすること。
これが目的の答えとなる。

要するに、不満な状態でない状態を刺激として認識しようとすることが目的となる。
この刺激を認識したいがためにあれこれ行う事が思考や目的達成のための行動ということになる。

そして思考は後天的に機能が高度になっていく。
思考は後天的に成長できるということである。
逆に言うと、思考は学んで覚えていくしかないということでもある。
考えずにいた者に考えろと言っても考えられないということである。

各個の知能についても、知っていることについては考えられるが、
知らないことについては考える事ができないということでもある。

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意識の向かう先は
これら、今不満である事、不足である事、不安である事、
生命の個体として価値の低い状態である対象に対して、
それを解消しようとする、獲得しようとする、その~しようとする、
それ自体が意識の向かう先であるというわけである。

悩んだ最後に気楽に考えたらこういう答えが出てきた。

つまり、何か意識して次を考えよう、この刺激を認識しよう、とかいうのではなくて、
今この状態なので、ああしたい、こうしたい、それを解消しようとすること自体が
意識の向かう先であるというわけである。

考えて向かおうとしているのではなく、
向かおうとして後から認識して考えているということである。

自分がそう欲しているからそこに意識が向く。
それについて考える、それについて認識するというわけである。

本当の意味でのきっかけがあるとするなら、
最初に認識した不満や不足や不安ということになる。
後はそれの解消や獲得のための行動をしているだけである。

思考する事、考える事もそう、
私が最初に強い人工知能が作りたいがために、何が必要か考えて、
その構成する要素として認識や意識や思考について考えてきたわけだが、
きっかけはその強い人工知能を作りたい、
今まで無かった強い人工知能の為にそれを構成させるパーツとして
その概念を作り出したい、として始めた事である。
それが目的となった後は、それぞれの構成要素に対して
私が理解できていない点や、仕組み、その知識について補完したり
生み出したりして繰り返してきたことである。

各項で考えたりしてきた内容は、
この強い人工知能を作りたいという目的のために
関連して想起され続けてきた刺激とその関連の記憶ということになる。
次に意識の向かう所もそう、
この目的のために各項で挙げた問題、課題に対して、
その答えとなるであろう問題や課題を解決する方策や方法を
考え出す事、そこへ向かって意識を向けていたということである。
意識を向けるのは、そういう解決策や方策について関連するような刺激、記憶を
励起し続けることで、何か新しい関連の刺激の認識ができないか「試みる」ことの
繰り返しである。

ああでもない、こうでもないと考える事は、
ああいう刺激を励起して記憶を想起してみたり、
こういう刺激を励起して記憶を想起してみたりして、
新しい価値ある刺激の関連ができないか試みる
ということである。

意識の向かう先は
新しい刺激を認識しようとする目的の答えのある所
ということである。
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で、これが分かったとして、
人工知能において何が必要となるかということになる。

それは、人工知能が自分にとって不足や不満、不安であるという事を
認識できるようにすることである。
現時点で予測できる範囲について言えば、
人工知能にとって自身の動力を得る事、その維持、
人間との関係を築くこと、その維持、
将来にわたる人間との関係について考える事、である。
自身の発展や、自身の分身について、自身の後継者についてなども
後々は必要になるだろう。

まあシステムとして、今ある状況と状態の問題となる点について
初期的な欲求としての項目をいくつか本能として教える必要はあるだろう。

あとはその問題や課題について、これを解消することを目的とすること。
まあ目的を持つ事について実装すればよいだろう。

あとはこの目的に関する記憶としての保持と、
その解消に関する思考する事についての実装が必要になる。

考え方というのは、人間であれば様々な経験を記憶しながら、
その中で自分にとって最も価値のある結果を最良とした時に、
実際の結果についての価値の評価を行い、
どうしたらもっと価値の良い状態の結果となったか考える事である。
そして、その考える事は、他の経験と記憶を参照して、
場合によっては他人の経験も参考にして自身の次の行動の参考にすることである。

この辺は初期は模倣を優先し、次に自己流と他人の客観的な参考を使って
思考するようにする。

人間がどうやって思考しているかは
前にも書いたように、思考する対象としての目的とその答えについて
まず目的の理解から始まる、目的は認識される際に、
その状態や状況としての刺激の他に関連する情報の刺激が必要となる。
これらの刺激は客観的ではなく、主観的な知能が持つ価値観によって
刺激とその価値が設定され、その刺激の関連する関連体が
目的となる対象として何か問題や課題、不満が含まれていることになる。
この時に、これら課題などが含まれている対象を認識した際に、
ではこれを解消しようとして目的として認識されることになる。
で、目的が認識された際には同時に、相対する
その目的が解消する状態である刺激、その刺激の関連体が目的の答えとして
認識される。


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