2021/7/19

不都合から目的を経て思考へ
改め
価値から目的を経て思考へ

071で考えた知能が自分自身の個体にとっての不都合から
目的を作り出し、それを達成するために思考するという流れについて
改めて考える。

知能が自分自身にとって何か不都合を感じなければ
問題にすることはなく、それを解消する必要もないため、
それは目的になることはないと考えた。

学問などにおいても、別に自分自身の生活や生命活動において
とりあえず不都合はないが、研究などにおいて学問の問題を目的とする事はある。
この場合の不都合は、自分が専門として研究している分野、学問において、
自分が探求しようとしている要素、知識において、それが不明瞭で
一部が不足している知識であるという状態が不満に思うという事になる。
功名心や野心、結果への見返りなどによって目的とする事もあるが、
何か研究しようとしている事について、知能が考える事としては、
それでもやはりその対象の問題を解決する事で価値の見返りがあると考えられる。

単純に何かが得られる、解消するというような単純な目的ではないが、
知能が、その問題を解決することによって得られる刺激・価値があるとするのは、
少なくともその問題に対して自身が意味がある、価値があると決めたからである。
社会的な問題や課題であっても、個人的な問題や課題であっても、
目的とするには必ず達成する価値が必要となる。

つまり、個人にとっての不都合や問題でなかったとしても、
何か価値があるのなら、それを達成する最終目標とする目的を作り出すことはあるということである。
例えば、先の例に沿って言うと、学問において、
私が今書いている人工知能の思考する機能についての研究があるとして、
現在はまだ解明されていない知能における思考する機能についてだが、
これは別に私が解明しなくても人類において今すぐ何か影響があるということはないし、
自分の命が脅かされるとか、そういう事には関係しない。
しかし、私自身の知的好奇心と、人類への貢献と、功名心と、未来への期待を価値として
私は今、この人工知能に想像し思考する力を与えるべく人間の知能の思考のしくみについて
解明しようとしている。

もう少し生活に則した課題であるなら、
今の時期は暑いので、もう少し部屋を効率的に涼しくならないものだろうかと考えて、
白い遮光ネットを購入してそれを窓枠に合わせて加工しようというのも価値ある目的として
少し前の時間に実行した行動があった。

実際に行動したり、思考したりするのは、
それが行動するための目的として用意されているからである。
行動するのには必ず目的が存在し、その目的は必ず得られる価値が存在する。

その目的の達成によって得られる価値は、
目的に達するための途中の過程を経る必要があり、
この目的に達するための途中の過程は、行動する前に想像、思考して準備しておく必要がある。
つまりだ、こう知能の中に目的とする価値を認識したら、
それを得ようとして目的とするが、
これを実現するために行動する、その内容を知能は思考して作り出すということになるだろう。

その目的の価値を得るにはどうするか。
これを実現するために知能は思考するということである。

となると、「不都合から目的を経て思考へ」というよりは、
「価値から目的を経て思考へ」ということになるだろうか。

不都合を解消するという価値という考え方もあるが、
あくまでその目的となるのは価値なのであり、
不都合を解消するという意味があろうが、なかろうが、価値には変わりないということである。

価値を得るために目的をつくり、
目的を達成するために考えるということだろう。

価値について考えることはあるだろうか。
何かこれが得られると自分が満足するという要素の刺激である。
あれこれ考える前に対象の刺激を欲する要素は
先に記憶されている刺激から構成されるはずである。
まあそれを言えば思考も同じ記憶の刺激から構成されるのだが、
ああこれが欲しいと認識する場合には、
記憶にある価値ある対象を認識することから始まると考えられる。

今も例えば何か欲しいものとして
部屋に飾る絵がふと1枚欲しいなと思った。
これはもともと私がその1枚の絵について価値を設定して記憶してあったということであり、
それをふと思って認識した結果として、
今、例えばの話で、何か欲しいものを想起しようとした結果、
絵の事が認識されたということである。
まあ欲しいものとしての価値を認識したが、
今は例えばの話で価値ある対象を想起しようとして認識したのが絵だったが、
実際にこれを手にしたくて目的とするところまでは行かなかった。
まあこれもあくまで例えとして認識しようとした価値の対象であるため、
目的としては達せられた価値であるとも考えられる。
つまり、例えとして得ようとした価値ある解答は、
例えの価値のある存在の記憶の想起をして、認識される所までで達せられていたというわけだ。

実際に達せられた目的というのはもう用済みであるため、
今は想起して文章を書いているために参考として
まだ記憶に残っているが、やはり達せられた目的は
記憶としてや、刺激としてはかなり減衰しているように感じる。

まあ必要としなくなった目的をいつまでも覚えていても役に立たないし、
実際に認識されるのはある瞬間においては1つだけの刺激であるので、
次の目的の実行には邪魔なだけである。
今も、繰り返しこのことを思い返しながら書いていると、
その目的をふっと思い出した時に思考や、入力の手が一瞬止まる。

次々と受ける刺激や、思考によって生じる目的達成のための行動の想起、
その瞬間瞬間に実行する行動は、記憶されている複数の目的とその達成のための行動手段が
記憶されていて、それをタスクのように切り替えながら実行しているようである。

今回文章や話としては少しまとまりが無いように感じている。
しかし、これも知能の中における刺激や記憶の整理には役に立っているはずである。
それは、刺激同士の関連を、想起と思考によって増やしているはずだからである。

思考する事は、刺激の記憶の関連を、今までなかった関連として新たな刺激同士の関連を作る事であり、
それは真理として正しくても正しくなくても、次の思考においては参照される関連となるからである。

新たな刺激の関連は、新たな思考の基となる。

前頭葉の辺りが暖かい。脳が活動しているのだろう。

人間、知能において記憶されている価値は数多く、種類も様々である。
しかし、価値を認識したからといって、
全ての価値を手に入れようと目的として行動するわけではない。

それは今、この瞬間における知能ある個体のその環境における状況と、
自分の体における状態によるということである。

高価な価値ある飲み物があるといっても、喉が渇いていなかったら
その対象は今は価値のないものである。
逆にお腹が空いていれば、おにぎり1つ、パン1枚であっても価値あるものとなる。
絶対的な価値に変更はないが、その状況状態における
価値の関連によってその瞬間の対象の価値は変化するということである。

これは、価値がその瞬間瞬間において変化するということは以前にも書いた。
絶対的な価値は変化しないが、その対象に関連する刺激、関連する価値は
都度変化する。
要するに、満腹の時のおにぎりと、空腹の時のおにぎりは、
おにぎりの価値は変化しないが、その体の状態によってその対象の価値が変化するということである。
そうすれば、その瞬間瞬間において、おにぎりを手に入れる事を目的とすることもあれば、
見向きもしないということもあるというわけである。

で、このおにぎりに関して関連する刺激として、
満腹の時のおにぎりと、空腹の時のおにぎりというそれぞれの記憶があるというわけではないようだ。
わざわざ満腹の時とおにぎりを関連付けて記憶するようなことはしない。
普段、このような記憶を直接使うことがないからである。
空腹の時のおにぎりも同様である。
では、この関連はどこからきたのか。

空腹や満腹に対する関連としてあるのは食物や腹具合とか空腹度合いとかである。
意味合いを変えれば感情的な満足度合いとか、そういう対象に関連付けて使う。
しかし、特定の対象、今回はおにぎりについて、個別の「満腹の時のおにぎり」というような
記憶の仕方はしていない。
今は、例として挙げた2つの食物の2つの腹具合の状態について関連させ、
それを例として認識して比較する為の要素として用いたということである。

そう、今はその2つの対象を刺激として比較し、それぞれを差のある対象として認識した。

私の知能が、おにぎりはまあどうでもよく、
この2つの体の状態、つまり空腹と満腹の状態に意味があり、
その差をもって食物に関連させ、比較対象とし、
あらかじめ状態とおにぎりを関連させて覚えているわけではないと言おうとした。

記憶の刺激の比較を目的として思考していたということである。
それを説明するためにはどうしたらよいか、思考した結果、
それなら2つの体の状態と、それに関連付けた要素、ではおにぎりを使って、
満腹と空腹の状態でそれぞれがおにぎりを目的とした行動をとるか思考するかということについて
考え始めた。が、それぞれ状態と物体の対象であるおにぎりは最初から関連はなかったのに
ということに気づき、それを説明する文章に変わっていったという今はそういう所である。

現実的に、思考していると1つの思考について考えたとしても、
その思考していると感じる1つの思考にいたるまでに様々な想起や関連、
さらには別の思考を経ているということが分かった。

何か1つ今、私はこれについて思考している、考えていると認識し、意識していたとしても、
その認識に至るまでに、すでに多くの想起や思考を経ているというわけである。

脳内で励起された刺激、記憶は一定時間保持されて、関連する要素と合わせて
過去に記憶された関連ある刺激の対象として次の瞬間に認識されることもある。
そういう刺激、記憶は、自身が持つ刺激の記憶としてはよく使われる、
習慣的な刺激や記憶がよく用いられるということである。
よく例に用いる対象は刺激として想起される対象としてよく使われているというわけである。

知能が、それを目的として行動するというのは、
思いのほか単純なシステムだが多くの事を経て決めているということなのだろうか。
それとももう少し分かりやすい仕組みになっているのだろうか。

もう少し考える必要がありそうである。
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今少し尿意を覚えてトイレに行こうかなと思った。
次に今少し、内容を改めて書いていこうとしたのでそれを優先して少し書いてから
トイレに行こうかなと思った。
そして、今、この書く方を優先してトイレには少ししてから行こうと決めた。

そして今少し先の書くことを考えているのだが、
尿意が継続するのでトイレに行くことにした。
(では行ってきます)
(今戻りました ついでに水も飲んできました)

この間にあった目的は
トイレにいっておしっこすること
この文章の改めた導入部を書くこと
水を飲むこと
細かい事を書けば、
トイレ用の靴に履き替えたり
手を洗ったり
蚊を見つけたのでつぶしてきたり
靴を履き替える移動
トイレへの移動
手を洗う移動
ここに戻る移動
ということを行ってきた。
それぞれは細かい目的であるが、それぞれに達成する価値もある。
大きくは書くかトイレに行くかの選択だったが、
それを実行するためには多くの細かい目的も達成する必要がでてきた。
おしっこがしたいからといって、移動せずにすれば漏らすだけであるし、
細かい行動まで書き始めたらそれこそきりがないほどの
目的と達成する価値があることになる。
手をあらうのであっても、
蛇口をひねり手を水に入れこすり蛇口を締め水を切り
合間合間に手を動かし視野を移動し確認し
とそれこそきりがない。

これをさらっと行っているのは知能である。
ついでにいえば過去の経験の記憶を参考にして知能が行っている目的の達成のための行動である。

それぞれの目的は次の目的の前段階として必要な目的や価値であり、
最終的な大きな目的を達成するための準備でもある。
それぞれの目的を続けて達成する事で最終的な目的を達成することができるわけである。

とすると、大きな目的を実行し達成するために、その達成のための行動の間を目的で埋めるのが
思考であるか、大きな目的の達成のために、この目的を分解するかということになるが、
ここでは今の瞬間に実行できない目的達成の行動へ続く途中の目的を次々と関連して実行する事で、
最終的な目的を達成するための行動に繋げていると考えるべきだろう。

目的を分解しても意味がなさそうなので、これは無かったことにしよう。

要するに、ある目的が出来た、それを達成するために、何をしようか、
この何をしようかを作り出すのが思考ということになるだろう。
過去の経験や記憶から、最初の行動を起こし、あとは次々に目的の実行、
そして得られた価値の関連からまた次の目的、行動、
それを知能が過去の経験や記憶から想起しつづけて行動しつづけて、
目的を作り続けて最終的な目的を達成する行動につなげるということである。


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