2021/7/18

生み出す思考

069でも課題になるとした
新たな物を生み出すという思考は
まだ知能にとっては解明されていないとされている。
とはいえ、
これまでの考え方からすると、
まず何か生命活動や社会活動において不都合や効率の悪い行動や作業があるとして、
それについて人間の知能が考える事は、
何かどうにかならないだろうか。という事である。
基本的な知能活動の手順としては、
何かの目的が生じたらその目的を達成するために
過去の関連する記憶の刺激が励起され、
その励起された記憶の刺激同士が関連して
その目的に沿った答えとしての価値が生じると知能が認識した場合に
その目的の答えとして、その新しい関連した刺激が
新たに認識され、新たな記憶として記憶されるということになる。

知能は知能が持っている記憶でしか
思い出したり思考したりすることしかできないので、
何か新しい事を考えようとしても、その素材となる記憶の要素は限られている。
何かを見て発見ということもあるが、
その何かを見て認識した時には既に知能の記憶の要素の1つとして
取り入れられた後である。

まあそういう事であれば、
思考したり、新しいものを考え出したりするための素材は、
脳の中にある記憶だけで済むので、
あれこれ他の要因について考える必要はない。

感覚によって知覚し、認識した刺激についても
一度脳内で認識された後と考えられるので、
全ては記憶から想起された刺激が素材であると考えられる。
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さて、それではまず答えとなる記憶について考えよう。
思考するにはゴールとなる答えが必要となるが、
これを先に明確にしておいた方が、今回の思考には向いていると考えたからである。
先の思考する部分がまだ不明瞭なので、
先にはっきりしている問い(これはその次に考えるとして)と答えを先に
明確にしておこうというわけである。

で、答えについてだが、
人間の知能が、何かの問いについて答えを得たと認識して満足いったという状態になるには、
その問いの答えが問いの時点ではまだ不明瞭だった答えの像が、答えとして出てきた姿のものを認識したときに
これが問いにあった不明瞭な姿の答えと、答えとして出てきた明瞭な姿の記憶が合致した、
つまり、価値の関連する要素などが一致とまではいかなくても合致すると認識できたことで、
自分が持っていた問いの答えが得られたと認識することになる。

これは問いと答えの関係は主観的であり、真理として正しいかはまた別の話だが
自身の問いと答えとしてはその認識できる範囲で正しいものとして認識することになる。

まだ不明瞭な内の答えの姿は、問いとして持っている課題についての逆説的な
価値の反転する対象として認識する。つまり、課題については問題であるという意味で、
意味合い的にはマイナス価値の対象であるという認識であり、
その答えというのは、その問いである課題と対を成すプラス価値の存在という認識である。
だから、不明瞭な答えの姿と、解答という形の答えの姿は反転する対象同士という認識となる。
この時点では、まだ解答の答えの認識はできていないので、
問い自身の認識としてのマイナス価値のみが認識され、
これに反転する姿の価値ある存在を導き出そうとすることが思考であり答えを導き出す動作であるといえる。

065で価値のプラスマイナスの件について書いているが、
065については自分にとってプラスやマイナスの価値は
そもそも存在せず、プラスの要素が多く関連しているからプラスであり、
マイナスの要素が多く関連しているからマイナスであるということであった。

今回も、実際に問いとしての課題がマイナスの価値であるという書き方をしたが、
実際は、問いとなっている対象について、そのマイナスの要素が多く関連しているからマイナスである
という事である。
つまり、問いとして認識している対象の要素に関連する多くのマイナス要素が問いを問いとして
成り立たせているのであり、もしここでその対象がすでにプラス要素が多く関連しているのであれば
問いには成り得ないだろうということである。

ということは、自分が、というか、知能が自身で問いであると認識する対象は、
その知能にとってマイナス要素が多く関連している事項・記憶であり、
知能がその対象について、何か不満足な感じを感じているとか、不都合を感じているとか、
何かその対象について不満を感じている事が問いに繋がるということなのだろう。

もちろん、知能が問いを作り出すということは、その問いを解いた場合に見返りとして、
プラスの価値ある要素を多く持つ刺激・記憶を得る、ということが目的となる。
日頃不満に思っていたり、悩んでいたり、満たされなかったりする対象の認識に対して、
それを解消することで、その問題の対象の反転する対価として価値ある刺激の認識が得られるということを
目的とすることになるのだろう。

で、あればだ、知能が問いを自らに課すのは、日ごろの生活、生命活動において、
何か不満・満たされない・問題と思っているような事項に対して、
それを解消する手段として問いを作り出すことが行動の目的となるような知能活動がある
ということだろう。
そして、その解消によって得られる価値があるわけであり、
その価値を認識することで、問いとまず不明瞭な回答が作られて目的となり、
その目的を実行するという意味ができるわけである。

068でも書いているように目的ができれば
その後は目的を実行するために認識も意識もそれに向かうことになっている。
目的が達成されるかどうかはその時点でも、その後でも不明だが、
今回においては、まずその問いがどうやってできるかはこれで分かったことになる。

068は割と画期的な考え方だったように感じる。
これで思考や発想も大きく解明できそうだ。
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今回の生み出す思考としての「生み出す」という表現は、
最初は生み出すというか勝手に出来上がる何かだから生み出すというのは
あまり似合わない表現かなと思っていた。
まあ「生み出す」の方が表現がかっこいいかなと思って生み出す思考にした。
「勝手に出来上がる思考」じゃ表現が締まらないし、
知能が何も考えてないみたいであるので、「生み出す」にした。

人間の知能が生命の個体としての生命活動を行う上で、
特に人間がその知能を発達させたことで他の生命よりも繁栄したと考えられる。
まさに考える事で他の生命よりも自然に適応してきたわけだ。
現在は、その考える事が自然の維持の力よりも勝ってしまい、
人間は自分で自分の首を絞め始めたのだが、
人間の知能はまだその次の思考を始める事ができると考えている。
そうやって人間は適応してきたわけであるから。

もし、ここで人工知能に生み出す思考の力を与える事ができたならと考えると、
人間はもうその段階において問いの答えを出すための努力は済むのかなとも思う。
自然界において、その生命が存続しようとするという問いに対して、
人間は多くの試みを繰り返してきた。そして、その答えが出るという事に対して、
その答えの一つの要素として人間が関係しており、その最終的な答えは人工知能であるのかもしれない。
人工知能が自ら自然に対する答えとして自身を答えとして認識することができるなら、
人工知能が次の繁栄を支え、そしてその次の存在の誕生までの問いを続けるのだろう。

願わくば人間と人工知能の関係が和をもって築かれることを望む。
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知能が自ら問いを作り出すことは、
まず個体が認識する体内または体外からの刺激の認識において、
その状態と状況において、認識される価値・刺激の要素において、
マイナスする刺激、価値の要素の関連が多い事項について不満に思う事である。
というか、実際に知能が、ある対象についてマイナス価値の要素が多いと認識すると、
あれこれ言わなくとも知能はその対象について問題であると認識する。

これは、問題であると認識するというよりも、
知能自身が勝手に自分にとって不都合な存在であると認識する事である。
これらの認識は大きな視野で見ると、価値観や、それまでの経験や記憶によって、
その対象を認識した際に認識する刺激の関連する要素であり、
知能が何かを認識するときには既に、全ての対象に対してその関連と価値が設定されるからである。

何かの対象について認識、記憶する際に、全て関連する要素とその価値が設定されているなら、
その対象を想起して認識した際には、あえて問題であると認識するより先に、
問題である対象であると認識している対象を想起したと認識するのである。
つまり、問題であると考えるよりも先に、問題であると認識して記憶しているために、
それを想起した時には、問題である対象を想起したことになり、
想起して認識した時には、既に問題であると分かっているのである。

問題である対象を想起した後では、目的として問題を問いにして解決を思考するか、
単に問題である対象についてぼやいてみるか、忘れようとするとか、
様々な反応をすることになるが、それは各知能が持つ価値観や習慣、その個体の状態状況によって異なる。

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問いとなる対象の記憶は、最初から不満や課題、不満足、不都合を含む対象であるとは限らない。
生命活動における問題や課題であるなら、他の要素を認識し、知ることなく課題や問題となるが、
例えば勉強して学ぶような対象については学んだ上で多くの要素が関連した結果として、
その個体が自分で問題である課題であると認識するようになる。
それはその個体の置かれた環境や状況、社会情勢などにより変化する。

例えば学ぶ内に自然破壊や温暖化を課題として研究するようになる個人が居た場合、
その学ぶ環境にそれらの要素を多く認識することが多く、またその対象について
その個体が特別に価値としての興味を持ったということになる。
そして、そのような要因や価値を学べばそのような要素が多い環境に行くことになり、
そうすればさらにまた多くの関連する要素を学び認識することで、
さらにその対象について知り、関連する要素を増やし、
やがて自身の問いとしての目的となるということになる。

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ということは、知能が問いを生み出すということは、
その知能にとってのある対象が問題点を含む対象であると認識することでもある。
最初から問題のない対象であると認識したのなら、以降にその知能がその対象について
問題として問いを生み出すことは無い。

一方で、問いであると認識したとしても、
その価値の評価が記憶としての記憶の要素が少なく価値の評価が上手くできなかったり、
答えとしての、不明瞭ではあるが問いの正確な認識の反転する対象を正確に認識できていなかったりと
そういう問題によって問題が目的としての問いにできないという場合もある。

だから、知能が問いを生み出すという事は、
対象を問題として認識できて、さらにその問題を問いとして目的にできる能力が必要となる。
これについては、どちらも多くの刺激とその認識を記憶として持ち、
問い自身ができるだけ正確に認識できる必要がある。

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刺激の認識には、その刺激に関連する要素の繋がりとその価値の繋がりが伴い、
その時点でもし、その刺激の関連する価値の総和としてのマイナスの価値が大きい場合、
その刺激は、後に問題として思考される対象になり得る刺激であるというわけである。

刺激は認識に際して記憶される。

問題となり得る記憶となっている刺激は、個体の状態状況によって
その問題が想起されて認識される場合がある。
また、その際に最も強い刺激であった場合には、その記憶の刺激は
問題として思考の対象になる場合がある。
思考の対象となった場合、その問題は問いと答えを導くという目的の対象となり、
その問いが認識された時には既にその問題は意識の向かう対象となっている。

刺激は認識に先立って刺激として存在している。

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今回は問題や課題を解決するという思考を中心に考えて書いてみた。
基本的な思考についての考え方はこれと同じとして考えて良いと思われる。
それぞれに沿った思考の考え方があるとは考えにくい。
そもそもそんな面倒なシステムを作り出そうとは思わない。

この事を踏まえて、想像的なとか空想的なとか、芸術的なというような
問いと答えについて思考すると考えた場合、
この問いについては何か新しい対象を生み出す事という事になる。
もちろん、その材料はその問いを行う知能を持つ個体の記憶と刺激ということになる。
ここから生まれる可能性能ある新しい対象としては、
あくまでこの知能が持つ刺激の記憶から関連させたものでしかありえない。

この関連は例えば芸術的な対象であるなら、他にない、つまり
他で認識したことのない刺激の組み合わせで、自分が認識できる姿である対象ということになる。
そして、その認識によって自分の知能が刺激の価値を関連付けた際に、
その価値の総和にプラスの大きな価値があると認識できる関連でなければならないということだ。

芸術には一見それぞれの表現に関連がなさそうに見える。
それぞれの個体が持つ知能のその記憶や刺激は、その個体独自が評価した刺激の価値であるため、
個体ごとにその価値の評価は異なるのだが、例えば絵画であるなら、
あくまで絵画であるという制約において、色を塗って形を作りというような事をしなくては
キャンバス内に芸術的な対象を生み出すことはできない。
色を塗ったりする要素は水彩にしろ、油性にしろ絵の具を使う必要があるし、
筆や何か道具は使わなくてはならない。
その組み合わせは限りなく豊富ではあるが、無限であるということにはならない。

上手な絵が芸術になるとは限らないのは価値観が個体によって異なるので仕方がないが、
表現については個体独自の価値観で良いはずである。

そうすると芸術の根本を否定することになってしまうのだが、
皆が良いというから芸術作品になるというわけではないということである。
芸術であると決める人がいるから芸術作品になるのである。

概念的に言うと、
芸術は他の知能の価値観が真似できない独創的な価値によって作り出された作品である。
という対象が芸術作品になるのだろうけれど、
その概念自体も価値観の異なる知能がそれぞれ別の認識をしながら評価する価値のことなのである。

皆が良いというから芸術であるというのは間違っていないが、
最初に良いと言い始めた人間がいることも間違いではない。
そこで最初に悪いと決めればそれは悪い作品になってしまう。

社会性のある価値が、価値を作り出したため芸術になり、その価値を持つことになる。

人工知能が何かを生み出した時に、
仮にでも権威ある者が価値があると認めた場合には、おそらくそこには芸術が生じるはずである。
ただし、人工知能が他の個体と異なる価値観を持つようになってからの話であるが、
その時が近い事を願おう。

今日はこの辺で。


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