2021/7/17

差別する知能

知能は差別することで2つのものを分けて認識しようとする。
一如という仏語の平等の反意語のような意味での差別ということでもあるらしい。
私のモットーの1つである「全てのものには二面性がある」にもあるように、
要するに1つの対象にでさえ二面の差があるということである。

別に差別自体は2つのものを分けて考えるということだけなのだが、
ここには重要な差を知能が認識しているということでもある。

ある2つの対象について、その関連する要素において、
2つの対象に共通する要素に、その差を見つける事でもある。

つまり、
対象Aの要素Xと対象Bの要素Xにおいて、
それぞれの共通する要素Xの刺激の差、価値の差を差別して考える事によって
対象ABの差が生じて比較判断の対象となり得るということである。

それぞれの対象に共通する要素がなければそもそも差別、比較もできないというわけである。

差別は良くないというが、
なるほど差別によって高低や貴賤などを分けるべきではないというのは
人間の良心の問題である。
しかし、それを否定するわけではないが、
知能が対象を差別する事はその知能の成り立ちから考えても致し方ない所がある。

差別する事は良くない。
それは客観的に良くないものとして、知識や規律として
社会生活を行う人間には必要であると考える。
しかし、個人的な意見や価値観として、
何かを差別しようとすることを否定する必要はないと考えられる。
悪い方にばかり差別の意味を使う事が多いが、
贔屓(ひいき)にしたり、優先したり、尊敬やそれこそ愛まで差別の1つだからである。
対象を愛して優遇する事は果たして悪い事なのだろうか。

知能においてはその差を比較する手段は価値の比較のみである。
価値は刺激とも置き換えられ、対象から感じる、対象から得られる刺激は価値そのものである。

対象から受ける刺激は価値観によるが、その価値観は知能毎に異なり、
その対象から受ける刺激の価値も異なる。

そうすると同じ対象を見たとしても知能毎にその刺激と価値は異なるのである。

例えばある対象について自分は好き、自分は嫌いという価値観の差があるとする。
問題なのはこの対象についての価値の差ではなく、好きや嫌いと考えるその価値観の差について
差別して高低、貴賤、良し悪しを比較する事なのである。


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