2021/7/17
意識の向かう所
067までに数回考えていた
次に認識する刺激についてだが、
結局は大元になっているのは記憶であり、
自分らしさという言葉も使って表したが
最終的には自分らしさというのは価値観のことだった。
自分が知能として持っている刺激に対する物の見方というのは
価値観そのものによって刺激に対する反応を起こすことだからである。
で、この自分らしさ、価値観を基にして、
刺激に反応するのであるが、これはあくまで
体内か体外から刺激が与えられた場合に起こす反応であって、
これは何か知能の中で意識的に何か意図して刺激を認識しているわけではない。
知能をもった生命体として刺激に対応、適応するのは自然な事であり、
これは知的生命体として必要な反応となる。
本能とか、自己保存とかそういった部類の反応であり、
経験や記憶を基にして反応を起こしているため十分知的には見える。
自分らしさというのも感じる。そこに精神などが宿っているかは別にして、
個体としての個性を持ち、それぞれに似たり異なったりした反応を示す。
まあこの直接的な刺激に対する知能としての反応は本能とか
そういったものが答えになると考えられるのだが、
そうすると、一歩踏み込んで、その脳内だけで思考しようとしたときに
なぜそれを思い出すのかという対象を決めるためのきっかけ、
この「きっかけ」がまだ不明瞭である。
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よく「意識を向ける」という言葉があるが、
この意識を向けてその刺激に対して注意することになるのだが、
このときの意識は何なのだろうかということである。
意識は連続した刺激の認識ということであるが、
であれば、意識を向けるということは、
連続した刺激の認識を向けるということになる。
それ自体はそういう事で成り立つのだが、
その認識を向けようとしたそのきっかけがまだ分からない。
それが分かれば思考や精神の事も解読できるようになる。
私がそれを気付こうとしているそのきっかけ。
注意を向ける寸前にそこに価値を見出しているもの。
注意を向ける寸前にそこに刺激を見出しているもの。
認識しようとするには、刺激によってある程度記憶が励起されておく必要がある。
次の瞬間に認識するためには、事前の励起が必要であるからである。
だから、知能が、次にそこに意識を向けようとした時には、
その刺激は既に励起された状態であるというわけである。
励起は意図的に行うというよりも、体内体外からの刺激によって励起されることになる。
その上で、思考や想像という形の記憶としての刺激のみを励起しているのは何か。
認識する前に既に励起されているのはなぜか。そして、励起しているものは何か。
こう、何かについて考えようとした時に、
既に頭の中ではそういう刺激の組み立ては済んでいることになる。
例えば、この文章を書いているという事自体でもそれは言える。
キーを入力する前に、頭の中ではこの文章が読み上げられているのである。
そして、その文章の読み上げに少し遅れる事コンマ何秒か、指を動かして
キーをその文字列通りに入力しているのである。
その文章が認識される前に、
「そ」「の」「ぶ」「ん」「し」「ょ」「う」「が」
「その」「ぶんしょう」「が」
「そのぶんしょう」「が」
「その文章」「が」
「その文章が」
という変換を経ながら頭の中で認識されるのである。
それを認識する直前にはもうすでにこの文章が作られる用意がされているのである。
ではそのきっかけは何か。
それについて考える今の脳内の感覚としては、
煮立つ泡のようにブクブクと考えが盛り上がっては消え、
また盛り上がっては消えしているような感覚であった。
全てを認識しているわけではないが、その中から使えそうな、
今、この状態を表すのに適した文字列が認識されているような感覚である。
ということは、この考えるという状態にあるときは、
その考えようとしている対象についてその関連する要素が次々と励起され、
その次々と励起された記憶の刺激にある関連が存在し、か、関連が生じだときに、
認識するに足りる価値があると、価値観で自分がそう思ったときにそれが認識されるということだろうか。
大枠としては行動となる目的がきっかけということである。
その目的には価値があり、それを欲するという基本的な生命の欲求によって
行動を開始しようとする。
それについて思考し始めると、その対象となる目的に関係する様々な記憶が励起され始める。
そして、その励起された刺激群の中から記憶として関連のある価値のあるまとまりとしての
刺激群にある価値のある記憶としてのまとまりがあった場合にそれは励起された記憶の刺激として形となる。
もし、それがその時点で最も強い刺激であったならそれが認識されるというわけである。
もともと生まれてこの方、幼い初めの頃には目的や価値など考えずに行動したりするものである。
色々な成功や失敗を繰り返し、多くの事を学ぶ内に、明確な目的や価値を見出せるようになる。
そうすると責任や義務などの制約と、自らの欲求であるところの目的のやりくりの中で、
意識的に何かを行おうとした時に、そこに認識の力を集中して働かせるようになる。
その状態が思考や想像といった知能が自らのきっかけでもって刺激として、記憶を励起し、
それを認識している状態をつくりだせるようになるということだろうか。
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目覚めてすぐ何かを認識するとしたら今の自分の周囲の状況である。
寝ている状態とか、周囲の明るさとか、体の状態とか、
それを一通り認識し終えると、もう少し広い情報を認識しようとする。
時間とか、日付とか、曜日とか、そうするとそれに関連した記憶から認識される目的が出てくることになる。
そうしたらもう一日のスケジュール、一日の目的の連続が開始である。
起き上がって、身支度と朝食と、出勤や登校、あとは予定が次々と現れ、
それを実行することを価値として、目的として実行し、一日を過ごす。
目的と目的の間には自分が持つ独自の目的、趣味や娯楽が思い出され認識され、
それを実行したいと思いつつ、決められた事を生きていくために優先して価値ある目的として行動する。
家に帰ればようやく自分の持つ価値や目的を優先して行動し、それを寝るまで続ける。
というわけである。
スケジュールにしろ、自分の趣味にしろ、
目的を目的として価値として認識した時にはこの目的の価値は記憶に記録されることになる。
そして、その目的を実行して達成し価値を得るために、その目的の行動を取れるときに取る試みをする。
その時、その状況で何の目的が優先され、何の目的を実行するかは、その目的の優先度による。
優先度は価値観による目的の価値の比較である。価値の比較は刺激の比較である。
何か目的を実行しようとした時にはもう、その目的を実行しようと思った時点で既に
それに関連した記憶、刺激が励起されはじめているということである。
だから、あれをしよう、これをしようとした時にはもう、それについての認識の準備は済んでいて、
あとはその目的を達成するために適した刺激や記憶が励起され、想起され、認識されるような
意識が向いているということである。
となると、きっかけは周囲と自分の状況であり、
その周囲と自分の状況によって実行される目的が決まり、
そして目的が決まった時にはもうその目的に関連する記憶や刺激が励起されており、
その時にはそれらの刺激は他の刺激よりも強い刺激になっており、
そうすれば意識はもうそこへ向いているということになるだろう。
であるならばだ、
私がこの強い人工知能の実現のためにいろいろと考えようとしている目的があり、
その価値はほかの自分が作り出した強制的ではない目的の中で高い価値があり、
時間があればその目的について実行しようとしており、
今は、その周囲の状況や自分の状態においてこの目的を達成しようと考えようとしている。
そのしている時にはもう準備段階として目的に関連した記憶が励起されており、
これを書き始めた時には今日の目的としての表題を考え、
文章を書き始める準備が出来て、その準備とともに文章が頭の中で作り出され始めて
キーを入力して文章を書き始めたということである。
それならば思考のきっかけは明白であり、
私の場合においては昨日の書きのこした認識の刺激の励起されるきっかけについて答えを出すことだった。
そのために「意識の向かう所」として書き始めたのだ。
意識の向かう所は、つまり刺激の認識の向かう所、その刺激の励起の原因を知ることを目的とした
表題だった。
そしてもうその時点ではその「きっかけ」をつかむために色々な関連する記憶の刺激を励起しながら
何か目的に合致した、新しい認識、刺激のまとまりが出来ないか、
色々な記憶を励起して、思考していると感じる事を続けたのだ。
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まとめると、
次に認識しようとしている刺激のきっかけというのは、
認識よりかなり手前、
個体の周囲の状況から与えられる刺激と、
個体の体内の状態から与えられる刺激が、まずの前提条件となる。
この条件の刺激によって知能の記憶が励起され、
その刺激の状態によって生じる知能が持つ目的が選ばれる。
この目的を達成するために知能はその目的達成の為に価値のある刺激を優先して認識しようとする。
意識はこの時点でこの目的の優先される刺激の認識によって成り立つ。
意識はこの目的、この目的のための刺激に向かっているものと感じられる。
そして、その目的が他の目的の価値と比較され、
現在の目的として変更が起こるまでこの目的が維持されて、この目的のための刺激が優先的に
励起され、認識される。
この状態の感覚を人間は意識するとか思考するとか表現している。
精神はこの人間が持つ目的が、
人間の個体差や環境差によって経験される記憶の差、価値の記憶の差、価値観の差として
個体差を認識するときに「自分らしさ」として感じるものの事を「精神」として言っている。
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