2021/7/16

次に認識する刺激

前回、次に認識する刺激として、
体外からの刺激についてはその刺激によって励起される関連した
記憶の刺激が、刺激への対応や適応として次に認識される刺激となると考えた。
この刺激から関連した刺激の想起に繋がる考え方は、
体外から与えられた刺激によるものだが、
仕組みとしては体内から発せられた刺激についても同様であると考えられる。
異なる仕組みを組み入れた所で煩雑になるだけだからである。
体内・体外についての刺激に対しての次の刺激の認識はこれで良いと思われるのだが、
では、想像やら空想やら、思考やらの脳内だけでその刺激と励起が完結する刺激の場合は
その認識はどうなるのだろうか。

まあ、これについても刺激から認識までの仕組みは先の体内体外からの刺激と同様の
ルートを通って認識されると考えるのが自然である。

または、人間にだけ備わった認識の方法があるとも考えられる。
他の知的生命と人間の大きく異なった認識システムとしては、自我や精神の発達が考えられるが、
これがその刺激の認識システムと関わっているのかどうか考える必要がある。

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体内体外からの刺激の認識システムと同様と考えた場合、
体内体外からの刺激であればきっかけは体内であれば臓器からや欲求などの刺激であり、
体外であれば周囲や環境の変化に対する感覚器官からの刺激を受け、
その刺激によって認識にいたる間に、刺激を認識しようとして励起される関連した記憶の刺激が
きっかけとなり、次の刺激の認識に関わっていると考えられる。

今日、出勤中の車の運転中にも感じたのだが、
車で走っている時に見える景色というのは視覚の刺激であり、
その風景、景色によってその次の道の先の様子が頭の中に思い浮かんでいるはずである。
初めて走る道であればこのような記憶が思い出されて、道の先がわかるようなことはないのだが、
もう何回も走っているような道であれば、容易に次の道順等が思い出されるようになっている。
これは、その走っている間に見えた視覚の刺激の情報が、道路の道順の記憶の情報として
関連付けられており、その道順の現在の位置がその視覚の情報から得られ、
それまで走ってきたルートと現在地点の景色から自分の居る位置としての刺激となり、
その先の記憶が道順としての刺激として想起されるために次の刺激の想起としてのきっかけに
なったのだろうと考えられる。実際に今日はその道順についてその認識をあえて意識しながら
走ってみたが、意識せずに走っていたとしても、道順にそって走っている間、
その先の道について認識する刺激は励起されていると考えられる。
そうでない場合を考えると毎回カーブなどで次はどちらに曲がっていくかなどと
考えて注意して走ることになってしまうからである。
周囲の環境の変化に対する適応や対応という点で、この走っている道の先の情報は
次に認識するべき刺激として現在の状態と状況がきっかけになっていると考えられる。
とすると、この少し先に認識されようとする刺激は、今に認識している刺激が
関連して励起している刺激の集まりということになる。
これは少し前の項目の方でも書いた記憶があるな。
要するにこの考え方は、あくまでこれまで積み重ねてきた記憶と刺激を基にして、
手持ちの記憶としての刺激から、現在の刺激によって励起された記憶の刺激の総和の状態が、
その次の時点で最も強い刺激の塊が認識されるということである。
で、これについても考えたのだが、今現在脳内である程度の強さの励起状態にある刺激の中で、
それらの刺激にお互いの関連がある場合にそれは単独の刺激ではなく記憶としての形を持っている
という事が言える。
それぞれが単体の感覚の刺激であるならそれは単なる知覚する単品の刺激と同じもので、
それは次の時点で認識されてもほとんど意味を持たない。
各感覚器官やそれらの複合的な刺激のまとまりとして関連して記憶することで
風景や音楽や料理などの記憶としての様々な情報を含んだ刺激、記憶となる。

脳内では単に刺激によって励起されたシナプスは、単独ではなく、刺激としての意味を持った塊として
意味を持つようになるが、その刺激単体の励起だけでは記憶としての刺激にはまだシナプスの数が少なすぎる。
だから、この単独の刺激に関連する形で、つまり、シナプスの軸索が繋がっていること(関連付けて
記憶されている刺激)によって認識できるまでにまとまった刺激が認識されているのではないかというわけだ。
これまでは単独で意味ある刺激は感覚器官からまとまって刺激として送られていると考えていたのだが、
その、今受けた感覚器官からの刺激はあくまで全ての情報を持った刺激ではなく、
認識されるべき刺激としてのきっかけの刺激というだけに過ぎないのではないかという事だ。
想起されるだけのまとまった情報を持つ刺激、記憶は、それまで経験、記憶してきた数多くの刺激から、
そのきっかけとなる刺激を受ける事によって関連して励起され、その関連をもって想起されて認識された
記憶が、次に認識されるということである。

きっかけは今受けた刺激ではあるが、次に認識されるのは、そのきっかけの刺激によって励起されて
認識されるきっかけの刺激に関連した全ての刺激が対象になるのではないかということだ。
逆に考えて、きっかけの刺激によって励起された関連した多くの刺激の中から特定の意味を持つ
関連のまとまりある刺激の関連したまとまりは、記憶として持っているものであり、
認識に耐えるだけの情報を持っている対象となり、認識される可能性のある対象となるわけである。

今、頭の中、脳の中では、その人が今日の今まで過ごしてきた中で励起され、減衰していった刺激の中で
その励起度合いの強さが残っているものが想起に耐える状態で保たれているのである。
ただ、互いに関連して意味を持つ存在でないとならないため、また、時間経過の減衰によって
認識されないレベルまで刺激の強さが落ち込む場合もあるため、想起に使われずに落ち込む刺激もある。
しかし、別の刺激によって励起される刺激の対象となる刺激がそれと関連していた場合は、
再び刺激として励起されることになる。そして、それらの関連の中で、何か意味のある刺激のまとまりとして
その関連が記憶されているものであると、想起という形である程度の強さを持つ刺激が誕生する。
そして、それがその瞬間に最も強い刺激であった場合には、その刺激のまとまりが認識されることになるため、
改めてその刺激はその瞬間に認識されるということになる。

冗長だが、何が言いたいかというと、
感覚器官から刺激を受けて、その刺激がきっかけになるという事は、
その刺激によって思い出される記憶があるわけで、ということは、
その元の刺激がきっかけになって、次に認識される刺激は、その関連して想起された刺激の塊
だと言うわけである。

この場合は、知能が自由意志で選択して次に認識している刺激を決めているわけではないという
ことになる。
が、その状態を構成しているのはこれまでの積み重ねであり、
自分の好みでそうなっていると考えられるのだが、どうだろう。
一見自由意志が存在しないようであるが、自分らしい刺激の認識の仕方は自分が持っている感覚器官と
その感覚器官が受ける刺激によって決まっているが、大前提としてすでに自分らしいのである。
個体差がすでに感覚の刺激の意味を決めているため、
その個体差によって感じる刺激の意味などは異なっているのである。
もちろん、その刺激の記憶も異なる。
環境と状態に置かれている自分らしさは常に自分らしく、自由意志という存在も自分らしい自由意志として
すでに持っているのであるが、その自由意志は自分らしいというだけであって、
自分らしさが独自に選択しているわけではないのである。
自分らしい選択は自分らしさによって既に決められていて、その決定を認識しているのは自分ではあるが、
その決定を選択しているのは自分らしさであって自分ではないということである。

自分は、常に自分らしさが選択し決めた事を後から認識することで自分が決めたと思い込んでいる。

そういう事か。

今ある自分は、個体差である自分らしさがこの環境・状況から適応・対応するために選択している事を
後から認識して自分が決めていると思っているだけというわけか。
でも、自分らしさは自分だけが持っているものであって、自作自演に近いものということか。

自分で自分を認識しようとしても少しずれているのは、自分らしさと自分の間にある時間差というか
認識のずれがあるからということか。

自分らしさは常に何の影響もなく個体差からだけで生じるというわけでもないらしい。
それは、自分らしさがこれまでに決めてきた、記憶してきたものから構成されているためである。
つまり、生まれてからこのかた、家族や友人、国や社会、世界情勢など、さまざまな刺激と記憶から
それらは成り立つからである。個体差というのは容姿や骨格、筋力などであり、
それによって刺激の受け方も異なり、それによって記憶される関連する刺激の意味合いが変わってくる
からである。

もちろん、他人からの影響もある。
自分らしさは個体差から生じるものであるが、その個体差は他人との個体差である。
刺激の受け取り方もその意味も異なるが、同じ人間としてともに関わっている間に
同調やら反発やらで刺激の受け取り方の相違が生じてくる。
それは、自分らしさというものにも影響してくる。

全ては結果論になるが、他人からの影響を受けるのも自分らしさの1つなのである。
ある対象の人に好意的な刺激を受けた場合、その対象の人の刺激の受け方に同調したりする。
逆に反発する相手の感覚には嫌悪する事もある。
これは人間としての性質であり、自分らしさの一環でもある。
そういう決定や選択も自分らしさが行い、自分が認識し、
そして新たな自分らしさの形となる。

さあでは人工知能に落とし込むとしたらどうなるか。
人工知能を持つ個体は、その環境や状況によって受ける刺激を持ち、
それに反応・適応することによって個体差、自分らしさを持つことになる。
ある程度の知能が出来た場合にコピーしたとしても、
その後の周囲の環境の変化によって個体差が生じることになる。
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では、大きく話を戻して
人間独自の刺激の認識システムがあると考えた場合はどうか。
自我や精神という点で他の知的生命の知能とは異なると考えた場合はどうか。

大脳の発達によってその認識できる「複雑さ」そのものが多くなった。
複雑な物事としてある刺激から認識できるというわけである。
大なり小なり他の知的生命とは共通する感覚ではあるが、
その複雑さゆえに他の知能では認識できない情報量を認識することができるようになっている。

人工物を除いたとしても自然の中においてはその情報をすべて関連付けて記憶することができる。
ん?独自のシステムとして他の知的生命と大きく異なる点は人工物を人工物としてさえも
認識できるということになるのではないか。

道具を使う動物もいるが、それらはその道具を道具としては認識していないだろう。
単に指や爪、牙の代わりとして、機能を延長するものとして使っているだけであって、
道具である認識はないだろう。

人間がその点で異なるのは道具を道具として認識ができるだけの認識能力を持つ事である。

まあ結局、それだけの認識能力を持つこと自体が、これだけの知能を持つに至る要因でもあるが、
認識能力自体はある程度の知能であればそれぞれの能力に沿った認識能力も持つはずである。

次に認識する刺激についてはこの場合について考えると、
認識能力の向上はその次に認識するべき刺激についても多様性を与える。
選択肢が増えるということと同時に、選択肢の情報が増えて正確性や不確かさも増えるということになる。
情報が増えるから正確でもあるし、その逆に不確かさも増えるというわけである。
であると、何か特別な認識をすることでと考えてみると、
上の事を書いた以上の認識はできないようにも感じた。

人間には特別と言えるほどの認識能力を持つに至ったが、
それは認識能力が向上した結果の高度な認識能力というだけで、
この認識能力が特別というわけではないと考えられる。

人工物が認識できたり、自我として自分で自分が認識できたりと、
客観的、主観的な物の見方ができるとか、それらは高度な認識能力を持っているために
認識できる対象であり、それらが元になりまた新たな認識ができるという
そのような状態まで人間の認識能力は高まっている。

主観的な物の見方が、認識においては初期に持っているものであり、
客観的な物の見方は、認識においては発展形の姿である。

自分を自分として認識し、他と比べる事が出来る事が人間の認識能力として
他より一線を画すものとなっているというわけである。
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で、まとめとなるが、
今回は、次に認識する刺激を決めるものは「自分らしさ」ということであるということになった。
自分らしさは個体差をもとにして、その生まれた環境や経験から成り立ち、
自分ではない自分として認識を決めるものとなる。

今日はこの辺で。


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