2021/7/11
好きと嫌いの価値
好きな対象と嫌いな対象にとっての価値は
どのような仕組みで成り立っているか考える。
まず価値について新しく考えた事は
価値はプラスとマイナスの設定があるのかどうか。
これは、放物線のようにU字にプラスとマイナスで
プラスとマイナス方向に絶対値が大きくなると考えていたが、
脳の記憶の仕組みとして、刺激にプラスとマイナスが無い事を考えると、
どうも価値としてプラスとマイナスの設定があるわけではない
という考えに至った。
そうすると、価値はどうなるかというと、
刺激の強さだけでもってその価値の記憶も決まるということになる。
そうすると、価値は、あくまで刺激の強さとして強いか弱いかだけであり、
その強さが好き嫌いやプラスやマイナスの設定を含まないという考えに至った。
であるならば、好きと嫌い、プラスやマイナスの記憶というのは
どのようなものであるかというと、
そのまま好きとか価値としてプラスであるとか、
嫌いとか価値としてマイナスである、という記憶の要素に関連するという考えとなった。
つまり、ある対象の刺激は、好きである、価値として好印象であるという記憶の要素が
関連しており、そのためその対象は好きであるとか、価値があるとかいう認識になり、
ある対象が嫌いだというのは、その対象についての刺激に関連する要素として、
嫌いであるという記憶の要素と関連しており、そのためにその対象が嫌いだとか、
マイナスの印象があるという認識になるということである。
そしてまた、好きと嫌いの間にある認識の差、刺激の差について考えた所、
ある対象を好きになるというのは、その対象が持つ、他の関連する刺激の記憶の要素に
もともと自分が持っている刺激の好みとして、好きな刺激という物を持っており、
その好きな刺激に関連する要素の刺激とその対象が関連付けられた時に、
その対象は、自分が好きだという刺激の要素に関連しているから好きだという認識になる
という考えになった。
つまり、ある対象が自分が好きな匂いがしていたので好きになるとか、
自分がかっこいい仕草が好きで、その対象がかっこいい仕草をしていたので好きになるとか、
そういうわけで、その対象と、自分が好きな刺激の記憶の要素が互いに関連することになると
その対象も好きな対象としてその対象の認識の刺激も好きになるというわけである。
嫌いになったりマイナスな感情というのも同様の仕組みである。
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また、相対的にあるグループに属する一団の対象が存在した場合に、
その中で好きや嫌いな対象が出来た場合、その一団の他の対象は、
その好きや嫌いになった対象と相対的な比較がされて、
相対する感情になったりはしないが、好きとそれ以外とか、
嫌いとそれ以外とか、関連する対象の比較される場合がある。
これについては、例えば好きな対象ができた場合に、
それいがいのグループの要素に対しては相対的に低い刺激となり、
その認識も低いものとなる。
「一押し」の理論とでも言っておこうか。
つまり、一押しは文句なく一番なのであるが、
それに類する同様の対象は、それが割と高い良い要素があったとしても
その一押しに対して低い対象として認識しようとする認識にいたるということである。
まあこの考え方については価値の比較としての考え方だけなので
まだ再考する要素はある。
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話を戻して、好きと嫌いの価値についてであるが、
この価値は絶対値としてはともに刺激の強さがそのまま価値の大きさとなっている。
刺激が強く、好きであるか、刺激が弱く、好きであるか、
刺激が強く、嫌いであるか、刺激が弱く、嫌いであるかということである。
単に刺激の強さがその認識される時の関連する要素の強さとなり、
好きか嫌いかは別として記憶として印象として強く記憶されるか弱く記憶されるか
ということになる。
好きだとか嫌いだとかいう刺激の要素は、
生まれてから経験し、記憶してきた自分の好みの刺激という記憶で間違いないはずである。
これは、五感に関する刺激で、視覚であれば好みの姿であるとか形であるとか、
聴覚であれば好みの音であるとか抑揚であるとか、もちろん匂いや、感触、味もそうである。
感覚的な好みにはより感覚的な匂いや感触、味と、
より経験的な見た目と音に分けられる。
匂いや感触や味は、学んで受けるような刺激ではなく、どうしようもなく感覚的に受ける刺激である。
常識として良い感覚であるという刺激として学ぶものでなく、
自身が直接感覚的に学ぶ刺激であり、
他人がどう感じようが、自分は好きであるという感覚になることがある。
一方、視覚や聴覚は確かに自分が良いと感じる感覚もあるが、
常識的にとか、皆が良いと言うからという先入観を含めた刺激として受ける事が多く、
特に視覚的な刺激にはこの常識のような社会的価値をすでに含んだ状態の刺激として認識されることが多い。
聴覚についてはやや感覚的な好みが分かれる事が多いが、
社会的に良いという価値が含まれると、自分も良いと感じる事が多い。
これを考えると、汎用的な仕組みとしては、
ある対象を好きや嫌いな刺激として認識し、その認識に関連する要素としての刺激については、
直接的な感覚的な要素の関連と、常識などの社会的な要素の関連があるということになる。
これは、自分が直接感じたある対象について受けた感覚からの刺激に対して関連させる刺激の要素と、
ある対象が社会的にそう思われるであろうという感覚からの刺激に対して関連させる刺激の要素が
あることになる。
直接的に受ける感覚の刺激の関連する要素は、自分の生体としての体の特徴的な感覚や、
その感覚独自の刺激の受け取り方によって個体差が生じる。
社会的な感覚の刺激の関連する要素は、成長過程において、これは良いものであるとか、
悪いものであるというような知識としての記憶の刺激の要素であり、
自分の感覚とは異なる学ぶ刺激とでもいう要素である。
とはいえ、対象を認識する際に、全てが社会的な刺激の認識になることはない。
この社会的な刺激の認識要素は、あくまで後天的な学ぶ要素であり、
これがまったくない状態で対象を認識しようとする場合には、必ず全てが感覚的な刺激の認識要素となる。
例えば、すぐに記憶に上がって気がのが、赤く塗られた抽象画である。
一見ただ赤く塗られただけのキャンパスのように見えるのだが、
どうもこれは社会的に見ると非常に価値があるものであるらしい。
私は抽象画の理解がないので、直接感覚的に見ると、100円でもいらないなと思う絵画であった。
ただ、もしこの絵画が1億円する絵画であると学んだ後でこの絵画を見た時には
まあ自分はいらないけれど、すぐに売ればお金になる価値はあるなという
直接的な刺激の価値の関連と、社会的な刺激の価値の関連が双方含まれて認識されるものとなる。
これは、五感全ての感覚にも言える事であるだろう。
いい味として覚えた味があるなら、自分の感覚と、社会的な学んだ感覚としての両方が、
この味の刺激に関連付けられることになり、その双方の価値を含んだ価値を、
この対象となる味の刺激の記憶として持つことになる。
ある対象の刺激→認識しようとする→刺激の要素を分ける→
脳の各野で刺激を受ける→刺激に対応する感覚が励起される→
その刺激に関連する記憶の刺激が励起される→励起された刺激がその感覚で受けた刺激となる→
その瞬間の最も強い刺激である→刺激として対象が認識される
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まとめると、
刺激は価値としての情報を持つ。
価値にはプラスやマイナスは無く、ただ強いか弱いか、小さいか大きいかだけの意味を持つ。
良いものとしての刺激と悪いものとしての刺激があり、
受けた刺激にどちらが関連するかでその受けた刺激の良し悪し、好き嫌いが決まる。
刺激には五感が直接感覚として受ける刺激としての関連と、
学んだ記憶や経験として想起され関連付けられる刺激がある。
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嫌いな刺激であるのに認識されて他の良い刺激とかその対象の認識に至らないというのは、
つまりはその刺激の強さのみで比較判断されているからということになる。
価値判断がその刺激の比較、思考などの基になると考えて居るが、
やはりその比較対象となるのは刺激の強さだけであるということになる。
好きか嫌いかとかプラスかマイナスかという情報ではなく、
刺激として強いか弱いかが思考の大きな部分を占めているということである。
単に価値判断として強いか弱いかを判断しているわけではなく、
あくまで良い価値を持つか、悪い価値を持つかという比較判断では
刺激の強さは関係ない。
そういう点では思考においては冷静に価値比較判断ができていると考えられる。
しかし、ふと思ったり、心配になったりする刺激は
そのときに励起された強さとしての刺激の対象が思い浮かぶということになる。
今日はこの辺で。
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