2021/7/9

価値観の構築

価値観は生命として誕生してからの
さまざまな刺激の経験を記憶としてあつめ、
その刺激の記憶をもとにして
現在の体内の状態や体外の状況について判断するための指標となる。

つまり価値観というものは、
これまで経験してきた刺激の記憶ということになる。

刺激の記憶から改めて価値観というものを構成するわけではない。
単に現在の状態や状況から受ける刺激について、
その刺激の認識によって励起される過去の記憶の関連する刺激が、
トータルとしてプラスの価値であるかマイナスの価値であるか
認識によって意識される感覚が、
価値観として感じるものである。

ある対象から受ける刺激が、過去の似たような状態や状況の
刺激の記憶が呼び覚まされ、その刺激についての印象が
良いものであるか、悪いものであるか感じることにより、
今対象から受けている刺激についての価値を推し量ることになる。
これにより、その刺激の価値を認識することになり、
結果として、自分がある対象から感じる価値の感覚、その認識に、
価値観を通して自分が認識しているように感じるのである。

それにより、後にその刺激について思い返してみた時に、
ああ自分の価値観はこういうものであると認識できることになる。

価値観という言葉にとらわれず、
似たような感覚としては、「印象」というものがある。
これも言葉通り、ある対象から受ける刺激について、
その価値を過去の記憶からその対象から受ける刺激に関連する記憶の中の刺激を
想起し、認識することによって、その想起した刺激の価値、
つまり、価値のプラスかマイナスかという要素について認識することにより、
「印象」としてその対象の価値を認識し、感じとることである。

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価値観の構築は、単にそれまで経験してきた刺激、認識してきた刺激の積み重ねであるのだが、
新たな刺激の認識によってこの価値観、つまり対象から受ける刺激の価値に変化が起こる場合がある。
対象から受ける刺激の認識において、その価値の総和がプラスとマイナスが変化するような
大きな変化から、その刺激に関連する要素の1つだけが変化するという場合もある。

過去の刺激、つまり、過去の記憶について、その時に記憶した刺激の価値には変化は起こらない。
しかし、記憶として存在している以上、その記憶された刺激の強さは減衰していく。
刺激の減衰は、その要素として刺激の価値の意味合いにも影響し、
忘れるというわけではないが、古い記憶の刺激の強さ、刺激の価値も時間の経過とともに
減衰することになる。これは、記憶した時の刺激の強さ自体が、記憶の強さにも影響し、
記憶してすぐの刺激やその価値の記憶も新しいものほど強かったり大きなものになる。
時間の経過とともに減衰された刺激の強さや価値は、
想起されたときの刺激の強さが減少し、その刺激の価値も相対的に減少して認識されることになる。

これにより、ある対象について新たな刺激を受ける事によって、
過去にその対象から受けた刺激とその価値は、新たな刺激が関連付けられることによって
その価値の総和にプラスとマイナスの変化が起こる場合がある。
ただし、過去に経験したその対象からの刺激が置き換わったり変化するわけではないので、
再び、その価値に変化が起こるような新たな刺激が認識された場合に、
再びその価値の総和がプラスとマイナスというような反対側の価値になる事もある。

原則として、価値観や価値は、過去の対象からうけた刺激の総和ということである。

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ある対象から受ける刺激 第一印象:刺激:その価値
2番目:刺激;その価値
3番目:刺激:その価値
4・・・
5・・・

その総和の価値
総和がプラス:価値観としてその対象は良いもの
総和がマイナス:価値観としてその対象は悪いもの

別の時にそのある対象から受けた刺激

その対象から受けた刺激に関連する要素として
過去の印象・価値観である価値の総和が想起され
参照される

過去の記憶の関連する要素の総和の価値がプラス
今回はその対象には良い印象を受ける
過去の記憶の関連する要素の総和の価値がマイナス
今回はその対象には悪い印象を受ける


例えば、ある人物がいて既に価値観として「ああいい人だな」と感じていれば
次に別の所で会ったとしても「あああのいい人だな」と思うのである。
逆に「嫌な人だな」と感じる人であるなら、後に別の所で会っても「あの嫌な人だな」
と思うということである。
しかし、その嫌だと思う人であっても、別の時に誰か知らない人に親切にしている様子を見たり、
何か直接話してみたら自分の趣味と同じ趣味をしていたとか、そういうことで
「嫌な人」から「前は嫌な人だと感じたが今はいい人」と変化したというようなことである。
過去の記憶としての刺激や印象、その価値には変化は起こらないが、
刺激の価値の総和としてその価値のプラスやマイナスは変化するということである。
逆にいい人という印象があったとしても後に嫌な人に変わることもある。

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ある対象から受ける刺激を全て覚えてはおけないため、
その対象に対する総和としての価値の記憶を価値観として記憶しておくと考えると都合がよい。
要するに、個別に受けた刺激やその価値を、印象というような漠然としているが
確かにその価値について参考にできるような形の記憶として保持しておくということである。

記憶のシステムとしては、詳細に1つ1つ覚えておくことは難しい。
シナプスの有限な繋がりの中で効率的に多くを記憶しておくには関連させて
ある集団としての漠然とした繋がりを作った方が多くの意味を持たせることが出来る。
赤いリンゴを1つ覚えるより、赤とリンゴを別々に覚えれば、
後に赤い別の何かでも赤を使えるし、リンゴも色によって分けて覚えることが出来る。

価値においてもそれは同じことが言えて、
価値の要素として、ある対象についての関連する価値の要素は異なるはずである。
物品であれば、価格の要素であったり、人物であれば見た目や言動であったり、
そしてそれらは別の物品、人物についてもそれぞれの要素として、
価格や、見た目や言動に対してそれぞれの価値を設定するはずである。

そうして、これらの対象に対する価値の設定する要素を使い、
さまざまな対象についての価値の要素の関連と、その価値の設定の記憶のまとめが
価値観となって感じることのできるものになるということである。

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記憶のシステムとしても
どうして価値観などを作っておく必要があるかと言えば、
やはり、瞬間瞬間にできるだけ素早くその状態や状況の変化、
ここでは、ある対象についての対応を早くできるように
過去の似た対象の価値を参考にして、今のこの目の前の対象に素早く対処するため
ということである。

ある人に会って、挨拶されたら、まず対象の人物を分析してから対処、などとはできないので、
とりあえず過去の似たような人や言動の印象、見た目から判断してとりあえず挨拶を返す。
というような行動をとるだろう。
会った瞬間的にはその対象の関連する要素を刺激として受け、
それに対応した価値観からの反応・価値の想起を自分の行動として参考にして
自分の対処のための行動に反映させるだろう。

もし価値観が無かったと考えると
対処の記憶などが無いわけだから、行動がとれずに緊張するということになるだろう。
これは幼い子供などの対処や対応として見て取ることが出来る。
まあ大人でも知らない人ばかりの環境に置かれれば緊張したりするし、
これも経験の有無によって反応は変わるはずである。

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価値観における関連する要素というのは、
先に書いていた記憶の関連する要素であるが、
これはある対象から刺激を受けた場合に、その刺激の要素として分割した結果である。
例えば、人物に出会ったとして、その人物の性別や年齢、容姿、服装、声質や言動、振る舞い
それらは次々に刺激として受けることになり、やがてその人物に対する対処や対応が必要になるときまでに
それらの刺激を受けた印象としての価値は関連する要素の自分の価値観から計算され、
その総和を参考にして対処や対応時に使われることになる。

どの要素に自分は価値観が高いと感じているかとか、そういうことは個別の資質であるが、
何かの対象について自分が行動・目的を作り出すことになった時に、
その時に価値観が使われ、その対象への価値でもって行動・目的の意味に繋がっていくことになる。

よく人を見る目があるとかないとか言うことがある。
これは対象としての人物に対して多くの刺激を分ける要素を持ち、
様々な価値の設定要素を持っているということであるし、また、
対象としての人物、つまり人間についての興味や価値を高く持っているということでもある。
先天的に人を見る目があったわけではなく、人間に興味があり、
その人間という物についての認識できる刺激の種類を多く持っている事が、そのまま
ある人間を前にしたときにその認識できる要素としての価値の設定が詳しく行えるため、
結果として対象の人物に対して印象としても感覚としても出来る限り正確にとらえ認識できる
ということに繋がっていく。

人を見る目が無い人は、多くの人と接する機会が無いとか、
人を判断する経験が無いとか、そもそも人間に対して興味がないということでもある。
これは、自分自身についても言える事で、
人を見る目がある人は自分についても良く知っており、
人を見る目が無い人は自分についてもあまり考えないということである。

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刺激の関連はやはり多くの点で
他の知能や思考や記憶の要素とも繋がりがあると考えられる。
ある要素についての関連する記憶を多く持っていると、
それに関連したまた別の新たな要素を記憶したり、認識したりするのにも役立ち、
詳しい人はさらにそれに詳しくなれるということである。
一見関係なさそうな記憶から別の新しい記憶の要素に関連付けられることもあるし、
その知能や思考の複雑さというのは、それらの刺激の記憶の関連の複雑さとも言える。

頭が良いとされる人が自分自身を頭が良いと感じていないというのもそういうことで、
知れば知るほど知らないことが多い事を知ることが出来るためである。
無知の知というのはそういうことであろう。
ただ果たして全知であったならどれだけこの世はつまらなことだろう。
多くを知っていれば頭が良いという認識にも至らない、ただただ
思ったことが全て分かってしまうそんな無為な時間を過ごすだけになるのだろうか。

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子供の間に多くを教えるというよりも、
子供が興味のあることを多く学ばせることが良いと考えられる。
たとえ、短期間で興味を失い、別の興味を持ったとしても、
新たな興味ある事を多く学ばせることにより、多くの刺激、その記憶の要素を
持つことが出来ることになる。
教えるという言葉にしなかったのも、自らの意思で学ぶという事が重要で、
学ばせるというのはあくまで周囲の人物は、
その子の学ぶ環境を整えるということだけをすればよいというわけである。
興味のある本を与えるとか、学ぶ場所を準備するとか、
そういう事が重要なのである。
単純に様々な場所に連れていくというのでも良い。
公園でも山でも川でも、何かしら新しい発見のできる場は
新たな刺激、新たな記憶の要素が増えることになる。

これについては、年齢に関係なく新たな刺激は新たな記憶となり、
脳の知能の活動には不可欠なものである。
変化のない生活では脳や知能が機能として働く要素がなく、
知能や脳としての機能が衰える原因にもなる。
使わない機能は生命にとっては不要となるので、
できるだけ使わないものは機能をセーブすることになるからである。

今日はこの辺で。


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