2021/7/6

刺激と価値と価値観

知能が感覚としての刺激を受けてから、
その刺激を意味あるものとして知覚し、認識する際に
脳がどのような働きをするか考えてみる。

特に刺激とその刺激が持っている情報としての要素として、
「価値」つまり、その刺激の意味する情報について考えてみる。

また、その刺激が持っている情報の意味は、
どのようにして意味付けられるのか、
ここでは「価値観」を基にして考えてみる。

刺激とその「価値」は文字による認識違いが起こりそうであるので、
価値というよりは「意味」という解釈で考えてもらえると良い。

刺激の意味する所。
その刺激の意味付けの基となる「価値観」ということ。

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刺激というのは、体内からか、体外からか、
一定の情報を生命体に伝えるために受け取る信号である。

刺激にはその刺激を受けるために効率化された
感覚を持ち、その感覚から決められた情報を刺激として受け取ることになる。

つまり、まず、刺激には特定の情報、意味が含まれており、
その情報を生命体が必要として収集する情報ということである。

その情報は、体内の状態の変化であったり、異常であったり、
体外の変化や危険であったりする。

感覚器官を何かしら持つ生命は、その感覚から得られる刺激を
自身と環境の変化の情報として得る事となる。

生命として生命の維持や存続の事を必要とした場合、
この体内の状態や周囲の状況の変化について知れた方が
生命の維持や存続には役に立つはずである。

状態や状況が変化したら対処、対応する。
これは適応として考えるなら生命には不可欠の情報であるといえる。

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では刺激の価値、刺激の意味について考えてみる。
価値や意味は、脳がその刺激に対してどのような意味付け、重みづけをするか
ということである。

これまで刺激の認識や意識について書いてきたが、
認識される刺激はその刺激がその瞬間において最も強い刺激である、ということである。
これは、脳や知能が、この刺激を最も強い刺激として扱おうとか考えたりした結果などではなく、
自動的にその瞬間における感覚器官から集められた刺激の中で最も強かった刺激が
認識され、意識されるということである。

これは、各感覚器官において、その瞬間に得られた刺激は
全て脳内の各野に送られ、そこで刺激として伝わることになる。
そして、その際に自らが選ぶ感覚はないが、自ら認識したように
その瞬間で最も強い刺激を知覚し、認識、意識することになる。

この際に行われる脳の働きとして考えてみる。
集められた各刺激の情報は、知覚、認識、意識されることのない刺激についても
集められている。
そして、脳自体としては、各刺激は刺激として全て情報を得ている。
だから、各刺激を受ける野のシナプスは一定の刺激を受けており、
励起状態にはあるはずである。しかし、ある瞬間における認識できる刺激が1つであるので、
最も強い刺激のみが知覚、認識、意識されて他の刺激はそのまま減衰していくことになる。
ただし、別の瞬間においては、また別の刺激が最も強くなっている場合もあるため、
その瞬間瞬間において、知覚や認識、意識される刺激は異なっていく。

これまで刺激の認識は、想起の形を取ると書いてきたのはこういうことからである。
想起も過去に記憶した刺激を励起する形である瞬間に最も強い刺激となった時に
その記憶した刺激を思い出すという形式を取るためというわけである。

ある瞬間において、直接受けた刺激が最も強い刺激であるか、
想起する形で励起した刺激が最も強い刺激であるかだけが問題であって、
認識される刺激は単に最も強かった刺激であるというだけである。

刺激としての情報や意味を脳として知覚、認識、意識した時に、
その刺激に含まれる情報は状態・状況の変化の情報である。

その情報については、知能から単独で働きかけることはない。
あるのは逆で、それらの刺激の情報を基にして、
その現在の状態や状況を理解・把握することに意味がある。
生命は、知能をもって現在置かれた自分自身と周囲の環境の変化に対する対応・適応をすることを
主な生命の活動としているのである。

知能が刺激を必要とするのは、自身や周囲の状態・状況の変化に対応・適応するためであり、
その対応や適応を最良化しようとした結果に生まれたものが知能であると言える。

生命がよりよく生きようとするために働く機能が知能であるといことである。

その知能には何が必要かと言うと、変化を知るための刺激を受ける感覚。
そして、その刺激に意味付けを行うための脳、そして、情報を保存しておくための記憶である。

ここまでで、刺激についてと、その刺激の価値、意味について書いてきた。
刺激はまあ単純に自身や周囲の変化、その状態と環境の変化を知るための情報である。
そして、価値については、変化の情報として受けた刺激に
その必要性に応じた強さの反応を行い、脳の野を励起すること。
励起は、直接受けた刺激の反応としての励起と、
想起として記憶や経験としての刺激を励起するための反応をすることである。

で、ここで1つ疑問に思う事は、
記憶にあった刺激を想起によって励起する場合、
何をきっかけにして励起が起こるかという事である。
感覚器官から得られる刺激というのは、もうこれは半自動的に、
感覚器官に絶えず与えられる刺激である。
目に見える景色であり、聞こえる音であり、接触する触感であり、匂う香りであり、感じる味覚である。
さて、では、脳にある記憶から励起される刺激はどうなのかということである。

何かを思い出すのは、偶然それを思い出すわけではない。
思い出そうとして思い出しているのである。
でも、その思い出そうとしている記憶を選んでいるきっかけは何であろうか。

赤ん坊の頃、何かを思い出そうとして思い出すことは記憶にない。
そもそも思い出すほどの記憶を持っていないからである。
ただ、生まれてからは急激にその刺激の記憶は増えていく。
匂いであり、音であり、景色であり。

さて、幼子の頃にはもう何かを思い出そうとして思い出せる記憶は持っている。
では、そのきっかけは、赤ん坊との違いとは何であろうか。

単純に考えれば記憶そのものである。
刺激の記憶、それを持っているかどうか。

先に、思い出そうとする刺激は偶然思い出しているわけではないと書いたが、
ということは、思い出す対象を持たない状態では思い出すことはそもそもできないが、
思い出す対象を持てば思い出すことはできるということになる。
当たり前のようだが、
それなら、思い出すという仕組み自体はそもそも持っているだろうとは
容易に想像がつくし、赤ん坊でもすぐに記憶を持ち、
母親の匂いとか、家族の声とか、周囲の変化に対してすぐに反応を示すようになる。

となれば、脳の機能として、知能の機能として、
思い出す対象を決めるのには何かの規則や決まりを持っているということになる。

それは何か。
「何をもって私はこれを思い出すのか。」と私は想起するのか。
今この瞬間の状態がある、そして、絶えず入力される刺激がある。
今、私は目的をもってこれを書き続けている。
そして、今の状態がある。
私は想起するべくして想起しているのである。
今、この脳内の知能の記憶の刺激の状態から、
次に認識するであろう刺激を知能は準備しているのである。
準備しているからこそ、その次の瞬間にその刺激を認識することができる。

人間の知能と脳の刺激の認識には、刺激の知覚から認識までの間に
若干の時間差があることは分かっている。
それは、感覚器官から刺激が入力されてから、刺激であると人間が感じるまでの間に
僅かな時間が必要となるということである。
その間の時間に行われている事が脳の刺激を認識するための働きということになるが、
何か人間でも私でも何かを想起しようとしている時にも、
それだけの時間が必要だということでもある。
だから、思い出した瞬間にはもう脳内ではその記憶の刺激は励起された状態になっている
ということである。

であれば、その想起する記憶を決めるのはさらにその前の瞬間であり、
その前の瞬間においては、自身の認識できる状態は何もないということである。
つまり、決めようとして決めている記憶ではなく、思い出す前の瞬間の状態が
次に想起されて、認識されるであろう記憶の選択を行っているということである。

私は次の瞬間に思い出そうとしている事は、既に決まっていて、
用意されている線をなぞるようにして思い出しているということである。

では、その次も、その次の瞬間も何もかもが決まっていて、
全て用意されたものをなぞるだけかというと、それはまた正しくはない。

世界に私の知能だけが取り残されてあらゆる刺激が失われれば
ただ1つの線ができるかもしれない。
しかし、そのような事はあり得ないし、
そうなった場合に考えられることは、ただ1つ無心である。
状態も状況も変化しないのだから、それに対応・反応する必要がなくなる。
つまり、夢を見ていない寝ている間の状況ノンレム睡眠に似ている。

知能が考える傾向というのは存在する。
この人はいつもこういう風に考える。というのがある。
それは、その人が持っている記憶としての刺激は決まっていて、
その人が受ける刺激の種類も決まっている。
であれば、その人はある決まった考え方をして、決まった事を想起する。
そういうことになる。

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自由意志は周囲から与えられる刺激に対して起こる選択であり、
因果は自由意志が選んだ結果の積み重ねであるということ。

自由意志は因果の上に成り立ち、
因果は自由意志の結果に成り立つ。

生まれた瞬間持っているものは自由意志である。
ただし、生命が生まれた瞬間に与えられたものは
世界から与えられた因果である。

そういうことである。
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だから、何か知能が考えて思い出そうとすることは、
基本に、今自分が行っている行動や目的、
今の自分の置かれた状態、
その脳が知能が持っている記憶があって、
そこに周囲の環境の状況と変化に対して適応・対応、
選択するという場面に置かれた時に、
次の瞬間に認識されるべき刺激が決まるということである。

それは、自分が考えたり選択しようとしているよりも先に
すでに知能が過去の記憶や経験から最も適した刺激を用意しているのである。

そして、
その次の瞬間には新しい状況・状態と認識、意識された刺激を感じ、
またその次の瞬間に備えて選択を繰り返すということである。

想起される刺激の内容は、まったくのあてずっぽうに選ばれていることはない。
認識される刺激が、ある瞬間における最も強い刺激であるので、
想起される刺激が選択されるその瞬間において、
現在完全に減衰しきっていない一定量で励起されている刺激に関連した、
つまりシナプスの関連のある記憶から想起される刺激が
選ばれることになるということである。

周囲の環境からの変化による刺激が与えられると、
その刺激の方が強い場合が多い、つまり、新鮮な刺激であるばあいは、
その刺激に関連した刺激の認識や、その刺激によって関連して励起された記憶の刺激が
次の瞬間に想起の形で認識されることになる。

この場合は、今までの思考などである程度励起された状態の刺激とは
まったく無関係の刺激が想起によって認識されることもある。
新たな発見やひらめきなどはこの状態の想起の認識になる。

思考は励起された刺激の関連した想起という形で行われる。
次々と関連した刺激を関連の種類や数、組み合わせを変えて刺激を認識し、
それらしい答えとなる刺激となるまで続ける脳の働きである。

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最後になるが、価値観について考える。

これまで価値が、刺激の意味付けという考え方をしてきた。
となると、この価値の意味付けの基準となるのが価値観ということになる。

受けた刺激の意味付けが価値、
であるなら、その価値についての意味付けは既に持っている必要がある。
持っているという事は記憶しているということであるから、
価値観は記憶に所属するものであると考えられる。

価値はその状態や状況の変化における刺激についての意味合いであるため、
この場合、価値観はその状況や変化に対して持っている過去の経験としての
記憶ということになる。

過去に経験した刺激に対してその適応や対応を行った結果に得られた記憶。
その刺激の適応・対応がプラスであったかマイナスであったかというような記憶である。

あと付け加えるのは価値観は変化するということである。
以前の047とかで詳しく説明したのでここでは書かないが、
今の自分の状態によっても価値観は変化するということだ。
例えば空腹時のパン1枚と満腹時のパン1枚という感じである。

刺激について認識するまでの過程で、
認識するために必要となる情報が価値ということになり、
その価値を決めるのは、その瞬間における自分の状態と周囲の状況、
そしてそれらの状態や状況についての記憶である価値観ということになる。

刺激の価値の意味付けにおいては、
価値は意識的に想起されるものではなく、
刺激によって自動的に励起される関連した刺激としての価値の総和となる。
こういう刺激を受けたから、この状況においてこういう価値があると
知能が決めるのではなく、
こういう刺激を受けたから、その刺激によって関連して励起された記憶の刺激によって
この刺激によって認識される価値はこういうものですよ、と決まっているのである。

そしてその結果は価値観としての記憶に反映されることになり、
関連する刺激の要素やプラスマイナス等の要素が変わることになる。


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