2021/7/4

行動と思考

061で行動は1つだけ優先的に行っていて、
自身の状態か環境の変化による刺激によって
行動を変化させる新たな目的が発生し、
行動の継続か変更かという判断が生じる状態になることがある。

思考は021とか059で言うように、
自分が経験し記憶している要素から、
現在の自分の状態か、周囲の環境の変化による差の刺激を受けて、
その適応・対応としてどのような新たな目的を作り出し、
行動しようとするかを、
自分の記憶の中からその状況に適した経験の記憶を想起し、
それらの組み合わせを試行錯誤しながら最も良さそうな
目的をまとめること。
ということである。

そうしてみると、
思考をして目的を作り出して、
その目的を達成するために行動する事は、
互いに関連しているということになる。

まあ人間の知的活動として当然と言えば当然なのだが、
考えずに目的ができる事はないし、
目的もなく行動することもない。

知能状態が経験が浅くとも深くとも、
多くを知っていようがいまいが、
知能の活動は全て今を適応・対応しようとして考え、
その考えた結果を行動しようとすることである。

「子供なりに考えて行動した」とかいう事があるが、
子供なりであってもそれなりの経験はしているはずである。
その場に則した思考や、その結果の目的や行動がふさわしくないものであったとしても、
その思考によって生じた目的は、その知能の状態における最適解であるはずである。

どれだけ経験を積もうが、知識を得ようが、その状況において最適解であると
知能が結論付けた目的であったとしても、必ずしもそれが正解であるかは分からない。
それはあくまでその知能が持つ経験や知識であって、
その範疇から逸脱する事は無いからである。

自然の真理としての例えば物理法則などの計算によって確定される答えのある問いについて
正解を出すというような事は知能の経験や知識でも十分に正しい答えとなるが、
その経験や知識の組み合わせだけで答えが出せて、
その知能が持つ経験と知識の量が異なり、さらにはその知能を持つ個体の個体差を含めた上で、
新たに作り出された組み合わせである「芸術」や「表現」については、
正解や答えのない刺激や目的となる。

直線を一本鉛筆で引くにしても、腕の長さや鉛筆の持ち方、線を引く経験や知識によって
異なった直線となるのは目に見えている。
同様に、芸術として人間が表現する絵や文章、音楽などは、個体差の上に成り立ち、
その知識や経験によって作り出されるものは異なり、さらに言えば、
その表現された作品を刺激として受ける際にも知能ごとに感覚器官の状態も変わるため、
その刺激の感じ方が異なるということになる。

絵画として完成された作品、製本された小説、楽曲の楽譜、全てはその時点で完成していて、
変化しないものである。
しかし、その完成品の意味は、知能が受け取る刺激としては知能の数だけ刺激の内容が異なる。
ある人の知能はその作品が素晴らしいと刺激を感じ、またある人の知能はつまらないと刺激を感じる。
しかし、その素晴らしい、つまらないという刺激の感覚自体も、
それまでの経験や知識によって作り出されているのである。

多くの経験や知識を持つ人が、この作品は良いものであると言ったとしよう。
それを知らずに素人が、この作品はつまらないものであると言ったとしよう。
その2つの意見を知らずに自分がこの作品を見た時にどのように感じるか、
そしてその2つの意見の内、片方、もしくは両方を知った後に、
この作品を見た時にどのように感じるか。

2つの意見を知らない状態は、それぞれの意見を知った後の状態に比べて
その意見の内容について自分が価値判断したという経験の有無分だけ異なる。
2つの意見について片方もしくは両方を知った上でどちらを価値あるものとして判断することになるかは
知能の活動としては常に行っている事である。
そうすると、先に片方もしくは2つの意見について価値を設定し、その価値判断を行った後で、
この作品を見たとすると、その時点では既にこの作品についての経験と知識を
持っていることになる。
さて、もし客観的に見て、意見を知らない、片方の意見のみ知って価値判断を行った、
2つの意見を知って価値判断を行った、それぞれの状態において、
この作品から受ける刺激にどのような違いがあるか。

結論として簡単に言ってしまうと
知らない状態から見たのが「第一印象」
知っている状態から見たのが「先入観」となる。
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これらは、行動について、つまりはその行動の基となる目的を生み出すときにも
関係することになる。

ある状況について何もしらない状態で、
その状態の変化する状況に適応・対応しようとするときの目的と、
ある状況について経験や知識としての記憶を持つ状態で、
その状態の変化する状況に適応・対応しようとするときの目的はかなり異なるはずである。

目的が異なれば行動も異なる。

思考というのも、
思考しているようであるが、
実際は脳が持つ手持ちの経験や知識という記憶のカードから
その思考していると思っている知能が、
様々なカードの組み合わせの中から、価値がありそうな組み合わせを
次々と作り出して、足したり、引いたり、入れ替えたりして、
その想起してみた時の刺激から価値を設定し、
その価値の判断を行いながら、思考によって導き出したと思っている
最も良さそうさ価値の組み合わせを思考の答えとして、その刺激を認識し、
思考した、答えを導き出したと感じている、一連の認識の連続の事である。

自分が「考えている」と感じている間、
つまり今自分は思考していると感じている間の時間に行われているのは、
その思考するという内容の最初の課題である「~とは?」という事と、
その答えとして自分が期待している「もっともらしい解答」の価値に等しいか近しい価値を認識できるように、
手持ちの要素の内から、「~とは?」に関係した記憶や経験・知識を総動員して、
様々な組み合わせを作っては価値設定し、
次にその組み合わせに新たな記憶の経験・知識を足したり、引いたり、変更して
新たな組み合わせを作り、価値を設定し、前の価値と比較して
価値の高い方を残し、また新たな組み合わせを考えて比較して
というのを繰り返し、思考に疲れるとか、外部からの影響によって思考が
中断されると、その時点での最も高い価値を持つ組み合わせを
その時に思考していた答えとしてその価値を認識するということである。

だから、例えば「人生とは?」という問いに対して
知能が思考するということは、
知能が「人生」について問いているなら、その答えの価値は
その知能が持っている「人生」についての価値と同じということになる。
「人生」自体は各知能毎に価値も異なるし、その「人生」についての知識や経験も異なる。
「人生」について思考すると、その時の状態や知識・経験により
手持ちの記憶のカードはある程度限定される。というか、記憶している記憶の関連要素しかない。
その中で、今もっている「人生」についての知識や経験から、
その記憶毎の「人生」に関する記憶から価値の高そうな記憶や経験を想起することになる。
その組み合わせを想起した時に、言葉にまとまるかまとまらないか分からないが、
何となく答えとなるイメージが湧くことになる。
次に自分が認識できる刺激の組み合わせとして、自分が認識できる刺激のまとまりになるまで
まずは記憶の要素を足し引きしたり、入れ替えたりすることになる。
そして、自分が認識できる記憶の要素の塊になった時点で、最初の価値の設定と、
その価値の刺激としての認識により、最初の答えが出ることになる。
そして、その認識された刺激の価値と、最初にあった「人生とは?」の答えである
自分が持っている「人生」についての価値の比較、判断が行われることになる。
そして、その答えとなった刺激の価値が、最初にあった「人生」の価値に近しいものであれば
それを答えとして、そして思考の答えとして認識することになる。
しかし、最初の答えがそのまま最良であるかは知能としては分からないので、
別の要素を足し引きした答えも考えてみることになる。
そして、それを思考する時間の間、繰り返し、最終的に最も価値の高い刺激の認識した答えを
その思考の答えとして認識することになる。
最終的に最初の答えがそのまま答えとなることもあるし、後から考え出した組み合わせが
答えとなることもある。
満足に足る価値のある答えが出せずに答えが出ないまま思考を終える事もある。

というよりは、答えとしての価値の高さを、
その記憶の組み合わせから得られる刺激を認識するときの価値が、
その最初に答えとして知能が思考の答えとして期待している価値よりも
高い価値であると判断できるときに、その思考の答えとして認識することになる
ということだろうか。
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思考すること自体は、
問いがあり、その問いの答えとなる価値の高さ、大きさを決める事ということになるだろうか。

要するに、思考する事は、
思考する課題と答えの価値を最初に決めて、
その思考する課題について関する知識と経験について想起して、
その想起した要素の組み合わせを、答えの価値より大きくなるように
組み合わせる事。
という事になる。

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行動は、あくまで思考によって答えとしての価値と目的は既に決まっているので、
その目的を実行するだけということである。
そして、061でも書いていたように、
行動しながら、状態や環境の変化によって行動の中断や変更を起こしながら
活動することになる。

生まれてすぐに知識や経験もなく刺激を受けた場合は
最初は本能に従って行動することになるだろう。
お腹が空いたので泣く、便を出して不快で泣く、
暑くて泣く、寒くて泣く、お腹がいっぱいで満足で寝る。
泣いて疲れて寝る。

目に見える相手が笑っているので笑う。
大声が聞こえてびっくりする。そして泣く。

その内に自分も動けるようになるだろう。
手も動かせるようになる。
つかんでかじる。投げる。様々な経験によって経験と知識の刺激は増え、それを記憶する。
やがて思考するに足る経験と知識を得ることになる。

自分は今の状態で何をしたいか?
今記憶にある経験や知識から目的を作り出す。そして行動する。
そしてその周囲の反応をまた記憶する。

こうして体の成長に合わせて、受けた刺激も増えていく事になり、
経験や知識としての刺激の記憶も増えていく事になる。

思考のきっかけは最初から「自分は今の状態で何をしたいか?」
ということである。
そうしてその答えは行動の目的となり、人間はその目的に従って行動し生きていく。

そうすると、思考そのものも
「思考」というもの自体があるわけではないということになる。
これも便宜的に、人間の知能が認識しやすいように「思考」と名付けているだけで、
実際は、「今の状態で何をしたいか?」の繰り返しということになる。

今私は「思考」しているらしくっぽく、
机に頬杖をついて、「思考する事とは?」考えていた。
何か問いと答えについて導き出すことが「思考」なのではなく、
自分が今の状態で何をしたいか?
難しい事を考える事も問いと答えの価値のある思考であるし、
今日の夕飯にご飯にするか麺にするかと考える事も問と答えの価値のある思考である
という答えが出た。
さらに言えば、夕飯は麺にする答えも出た。

要は、自分が今の状態で何をしたいか?とその答え。
最初に思考することが存在するのではなく、
「思考する事とは?」について考えようとする事、それ自体が
自分が今の状態で何がしたいか?の問いの部分であり、
それが思考のきっかけとなり、その答えを得ようとする事がその
思考する事の行動の目的となっているのである。

だから、「思考する」などと枠に当てはめないで、
「今の状態で何をしたいか?」と「その問の答え」において、
その問の答えを求め続ける事が「思考する」というわけだ。

とすると、覚醒中の行動において、
その行動を変化させる時は全て思考していることになる。
もちろん、何かについて問いて深く考える事も思考であるし、
今日の着ていく服を考える事も思考である。

現在目的ある行動を継続している間に、
新たな刺激が認識されたとして、継続している行動を
そのまま継続し続けるか、中断して別の行動を実行するか、
そういう思考もあるわけである。

思考は、「行動の価値判断」という言い換えもできるだろう。
つまり、思考するということは、行動の優先度を価値によって判断する事。
ということである。

では、「人生とは?」について考える事は思考ではないのだろうか。
「人生とは?」について考える事は、行動の価値判断ではないとすることになる。
思考する事が行動であるのなら行動の価値判断でもあるのだが、
思考する事それ自体が、行動の価値判断であると言った場合、
「人生とは?」考える事自体を行動として優先度を価値判断しながら
変化させているということになる。
「人生とは?」という考える行動と、「人生とは?」という考える行動を
価値判断して優先度を比較することになる。

それぞれの「人生とは?」の答えが異なるのであれば、
それぞれの「人生とは?」について考える事を各個の行動としてとらえ、
別の意味での「人生とは?」について考え方を変えながら目的を達せようとしている
と考える事もできる。

まあそれなら不都合はないことになる。

ああ、それなら、知能として、
思考にしろ、体内からの刺激にしろ、外部の環境からの刺激にしろ、
何らかの新たな刺激、つまりその刺激の価値が認識された際に、
現在の優先している刺激の価値と、新たに認識された刺激の価値を比較する事が
思考であると考えると自然だろうか。

それならば、思考していようが、あくびをしていようが、昼ごはんを食べていようが、
ある目的の行動の状態を維持していても、維持していなくても、
特定の状態にあり、その状態は、目的という刺激の認識された状態にあり、
その状態から新たな刺激の状態が認識されようとしている時に、
その刺激の価値比較をする事が思考であると。

とすると、価値比較自体が思考ということになるか。

前から知能の根幹には価値と価値判断があると考えてきた。
結局ここに帰ってきたことになるか。
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まあ今回、私自身が、できるだけ「言葉」にとらわれないように考えるようにしたいので、
今回あえて「思考」自体が何か別の自然な知能の働きであると考えるようにしていたので、
こういう書き方をした。

結局、人工知能が思考するには、
人工知能を持つ本体が、「今の状態で何をしたいか?」と「その答え」を
自分で作り出して、「その答え」の目標とする価値に向かって行動する事を
自分でできるようなれば、強い人工知能として機能できると考えられる。

「今の状態で何をしたいか?」については、
自分の状態から発せられる刺激と、外部の環境から与えられる刺激に
適応・対応するための行動であり、
「その答え」については、
「今の状態で何をしたいか?」の達成目標としての価値を行動の目標として決める事である。

それと、
覚醒中は、常に内外から刺激を受けることになるが、
その刺激に対して、ある瞬間においては最も強い認識される刺激を、
現在実行している目的の価値=刺激と比較判断することである「思考」ができること。

そういうことなら、現在実行している行動と目的=刺激は
継続して連続して認識されていることになるので、意識があるという事もできるわけだな。

で、基本的な精神を持つ知能の活動は上記のこういうことになる。

内外からの刺激→体→知能で認識→最初の行動・目的決定→
→行動実行→割込み・内外からの刺激→体→知能で認識→
→割込みの刺激の適応・対応決定→割込みの行動・目的決定→
→現行の行動と、割込みの行動の価値比較→行動継続または行動変更→
→(以下割込み・内外からの刺激にループ)


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