2021/6/29
喪失感の置き場所
昨日見たテレビで
早くに亡くなった父親の残された母親と子供の話があった。
そして、父親が残した2つのブログ、
細かいことまでは見なかったが、
そこへ書き込まれた見ず知らずの人のコメントに
心を支えられたというような内容であった。
解説で、
亡くなった事を忘れて前を見て生きようとするというよりも、
喪失感はそのまま受け止めて、その置き場所を作り、
喪失感を携えたまま新たな未来を生きるように考えるのが良いという
内容があった。
以降は自分の勝手な思い込みだが、
実際に喪失感のようなやり場のない思いというのは、
時間が経過すれば、確かにその思いは薄れてはいくが、
やはり完全に忘れるようなことはできなくて、
いつまでもくすぶり続けることになる。
それならば、やはりその喪失感のような思いは、
棚上げというわけでもないが、とりあえず置き場所を作って
そこに安置し、忘れるでもない、思い出すでもないような
神棚の神仏のように扱うのが良いということであった。
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これまでの知能に関することで、
これに当てはまりそうなのは、
環境の変化による刺激を受けたということになる。
この場合だと、環境の変化は、
何か現実に存在していたものが、未来に関して失われた事、
それによって未来に期待されていた価値が失われるという
つまり喪失感ということになる。
例えば、上の話では、亡くならなければ存在していた父親とその関係において、
未来に期待されるであろう出来事、その価値が、
その亡くなった時点、以降の未来においてその得られたであろう価値が失われたという
状態・環境の変化という刺激を認識したということである。
未来に得られたはずの価値が失われたという環境から、外部から与えられた刺激は、
つまり感覚としては言葉で表すと「喪失感」ということになる。
この環境の変化の刺激を認識すること、喪失感を認識することによって、
感情として悲しいとか寂しいとか、そういう反応が現れたということである。
現在の時点では期待は存在しないのだが、
現在から未来について想像、思考した時点で、
未来について得られるであろう価値が認識されるということである。
生前の状態であれば、現在から未来に関して想像や思考すると
確かに今後の時間経過によって訪れる出来事や変化は想像、思考できる。
それは、現在の時点では価値として認識しているかというと、
実際はその未来の想像、予想、思考は、状態の変化として刺激として、目的と価値として
認識できない状態にある。
計画を立てていた事があるならば、目的として価値が設定されているが、
計画はなく、想像や予想、思考により未来にこういうことが出来た、起こる、という内容の
目的や価値は、状態の変化による後付けによる価値ということである。
それが存在していたなら、こういう価値が得られただろうに。という事である。
人工知能においては単純な価値の期待や、その比較だけになる判断だけでは
知能らしさという点において余りに機械的である。
人間に寄り添う人工知能であるためには、どうしても感情のようなものが必要であろう。
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喪失感の置き場所という意味では、
喪失感がその期待されていた未来の価値について認識することによって
それが失われたという事による相対的なマイナスの価値が
その感覚を知覚する基になっているということであるが、
価値が何らかの目的とセットで生み出されるものであるならば、
その価値を得ようとする目的、つまり、
期待されていた未来の価値を得ようとする目的が生み出されるが、
その目的が実行することができない、その価値を得る事ができない、
そういう認識が、喪失感であるのではなかろうか。
つまり、
それまで価値を認識していなかった事、
その価値とセットになるであろう目的は、
それまで認識したり、意識したりすることはなかったが、
改めて認識し、想像、思考した時には、
その価値も目的も認識できるのだが、目的として完遂することができない。
その辺りに喪失感の刺激があるのではないかということだ。
目的や価値が存在するのに実行できない、完遂しない目的であるという認識。
それは、目的として存在しうるのか。
将来の夢や目標というのは、どれだけ困難な物事であっても、
可能性としては完全に不可能というものではない。
それだからまだ目的として保持し続けることはできる。
では、価値ある目的として認識された目標が、
既に実行できない、完全に不可能であるものである場合、
それは、忘れるものではないが、目的とは異なる認識となるようである。
今、完全に不可能な目的として、学生時代にやってみたらどうなったであろうか
という事について想像、思考、考えてみた。
その時代に目的として持ってみたらどうなったであろうか、そういう状態の変化や
刺激の予想や、予測、そういう目的になったかもしれない、
そういう予想としての刺激の認識はできた。
これは、
今実行するべき目的の中にはそれはない。
あくまで過去にその目的を目標として行動してみたらどうだったであろうかと
考えた事である。
この発想を得る価値は、想像とか空想とかの
実際に存在するか分からない目的や価値の認識である。
存在や実現しないことを分かっていながら想像したり、思考したりして
刺激として価値として認識しようとしているのである。
なぜそういう事を想像したりするのか、
現実的に考えれば実際に実現しない完遂しないことである。
自身の知能にとっては、それでも価値があると認識しているのである。
簡単に現実逃避という意味をつけるのは簡単であるが、
その意味合いは様々である。
今思ったのだが、難しく考えずに簡単にシンプルに考えたら
「ただ、それを考えたかった。」という思いが出てきた。
対象が好きであったり、必要であったり、まあとにかく
重要な、貴重な存在であったわけだ。
その対象について考える事は、目的の現実的な実行や完遂などは関係なく
ただ、その対象、相手について考えたかっただけなのである。
その存在の有無に関わらず、その存在の遠近に関わらず、
好きな対象について考える事には意味がある、価値があるのである。
自然はシンプルを好む。シンプルに考えよう。
手が届かなくても好きな相手について考えるのは楽しいのである。
価値があるのである。価値があるなら目的になりうるのである。
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価値の有無、プラスやマイナスの基準は知能それぞれである。
知能ごとに対象への価値の設定は異なるし、
そもそも、その知能が出会うことになるであろう対象は限定的である。
知能の、価値の基準にしても、その知能が蓄積していく事になる
対象への価値の設定は、自身と環境の違いによってまた異なる。
その異なった知能が特定の対象にどれだけの価値を設定するのかもまちまちである。
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現実に存在しうる目的であっても、現実に存在しえない目的であっても、
それは目的であることには変わりない。
その目的には完遂により期待される価値があり、
その価値の存在により比較や判断もされる。
そのまま完遂まで進まない目的であっても、
そのまま目的として保持し続けるだけである。
目的が完遂に向かって全く進まなくても、
目的は目的のままである。
ただ、自分も周囲の環境にも変化は訪れる。
これまでも自分と周囲の環境の変化によって価値にも変化があることは書いてきた。
時間が経過すれば価値が小さくなることもあるし、
新たな変化によってその価値の目的を完遂する方法にも変化が起こることもある。
つまりはそうして、どのような目的であっても、価値があったとしても、
忘れるのではなく、そのまま目的として保持し続けて、
いつか訪れる変化を待つべきものなのだろうという事である。
喪失感の置き場所などと大層な事を書いているが、
目的が実行できなくなった喪失感は、
特別な場所に置いたりしなくても良かったのである。
目的は完遂しないがそのまま保持しておけば良かったのである。
特別に考えることなく、それでも忘れず大切にしておく事。
時には寂しい気持ちや、悲しい気持ちも感じるが、
そういう時にはじっくりと思い出しても良いのである。
それを考える事には価値があるのである。
でも、必ず変化は訪れる。
今日はこのへんで。
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