2021/6/26
意識が生じるための認識
連続した刺激の認識
基本的にはそこに意識が存在しているということになる。
特別に「意識」というものが存在するわけではない。
連続して刺激を認識している状態をあえて「意識」と呼んでいるようなものである。
連続した刺激は、生命が感覚を持っていて、
その生命活動のある時間の間は常に連続した刺激が
与えられている状態だと言える。
この連続した刺激が与えられ続けている状態で、
その刺激を連続して認識している状態を
「意識がある」という状態だと呼んでいる。
人工知能においてある感覚器官に似た刺激の入力装置・センサーを与え、
そのセンサーから入力され続ける刺激を認識しつづけることで
意識が生じるということになる。
であれば、この認識の仕組みを解明すれば
意識に到達することができると考えられる。
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認識自体は、刺激が感覚器官から神経を通り、
脳幹を経て各脳へ刺激が通達される。
感覚器官は特定の野に対して刺激が送られることで、
その感覚の刺激を受けたこととなる。
この時点ではまだ刺激を認識したり意識したりすることはできない。
刺激が特定の野に通達された後、
まず活性化するのはその刺激についての情報である、
触覚であれば、体のどの位置について、どのような感覚の刺激で、
どのくらいの強さの刺激であるか、
視覚であれば、焦点を中心とした画像、色相、色彩、コントラスト、明度などの
情報が刺激によって活性化される。
感覚器官の野では、それらの刺激に対して決まった反応をするように
できている。その方が簡単でシンプルだからである。
逆に簡単に反応できるようなシステムに淘汰されたともいえる。
刺激に対する決まった反応というのは、
その刺激の内容、刺激の意味する所の情報を
その刺激を知覚できるように要素ごとに分解することである。
先に書いた触覚を感じた体の位置や感触、強さといった要素である。
刺激の情報は特定の野において、
それぞれ決まったシナプスの集合体の励起によって刺激の情報が
通達されたことになる。
刺激によるシナプスの励起は想起によるシナプスの励起と同じ仕組みであり、
これまで刺激の認識において、その想起により刺激が認識されると
書いていたが、つまりは、刺激によるシナプスの励起も、
想起することによってシナプスが励起されることも記憶のシステム的には
同じ処理を行っているのである。
これまで人間が勝手に刺激の認識とか、記憶の想起とか分けていただけのことで、
生体としての脳の働きとしては同じ処理をしているのである。
まあ、これも自然はシンプルを好むという考え方から導いたわけだが、
現在の考え方としては、それで良いと考えられる。
刺激の情報によってシナプスの励起が行われた時に、
脳内の認知する機能としては、その瞬間、瞬間において、
最も強い刺激が知覚されるということである。
まだ、ここでは認識という言葉は使わないことにしておく。
ある瞬間においては触覚、
次の瞬間においては味覚、
また次の瞬間においては視覚、
といったように瞬間瞬間で知覚している刺激は切り変わっている。
(意識的に少し専門用語を控えて書いてみている)
その知覚する感覚としては、
自分がこの刺激について知ろうと意図的に知覚しに行く感覚である。
これを知ろうとして知る、といった所か。
実際に、瞬間、瞬間においては、全ての感覚が、
それぞれの感覚の刺激を常に受けているはずである。
視覚で何かを見ている間も、味覚では口の中では何か味がしているはずであるし、
何かに触覚で触っている間も、聴覚では何かが聞こえているはずである。
それでも、ある瞬間、瞬間においては、
ある刺激について知覚し、その刺激に注意を向けると、
それ以外の刺激については無かったかのように知ることが出来ない。
それは、ある瞬間において、刺激を知ることが出来るのは1つだけということであり、
逆に言えば、その1つの刺激を知るためのシステムも1つだけあるということであり、
そのシステムは、次々と与えられる刺激を選択し、ある瞬間に1つの刺激を知ることが出来るという
システムから成り立っているということである。
要するに、刺激を選択するシステムがあるということである。
五感→刺激を知るシステム→1つの刺激
実際に、そのシステムは簡単なもので、
ある瞬間に最も強い刺激が選ばれるというシステムである。
でも、これには少し追加されるシステムがあり、
1つの刺激を知った後で、次の瞬間に前の瞬間では弱かった刺激をあえて選ぶことで、
次の瞬間にその特定の刺激を知ることができるのである。
何らかの力が加わり、特定の刺激を刺激の強さを別にして知ることが出来るというのである。
普段の活動では集中して何かを行うときにはこれができているのである。
机にコインを縦に立てるときは集中して視覚と触覚の刺激を切り替えながら集中することが出来る、
この集中している間は味覚や嗅覚、聴覚などはあまり必要とされず、また、実際に
集中している間は味や匂いなど感じていないはずである。
実際に、この刺激の選択には、刺激を知るシステムとは別の後天的な力が加わった結果なのであるが、
ある瞬間において、ある刺激を知覚した、その次の刺激を知覚するまでの間に何かが
起こったという事である。
最終的には、その知覚したい特定の刺激を野の中で準備段階としてある程度励起しておき、
その刺激の情報が得られた時にその瞬間で最も強い刺激であるように準備しておくことが行われる。
その前の段階では、その次に知覚したい刺激を選択することが行われることになる。
選択して準備しておかないと、別の刺激が最も強いという事になりかねないからである。
では、その次の知覚したい刺激を決めているものは何か。
今、実際にボールペンを机に垂直に立てようとしたのを例にしてみると、
何かの行動をしようとして、それを実行している最中に、
必要な刺激は今はやはり視覚と触覚であった。
音に注意を払ってみたり、口の中の味や、空気の匂いについて意識を向けてみる事もできた、
でも、その視覚と触覚以外の感覚に注意を払っている間にはボールペンは立たなかった。
しばらく試行錯誤している間に、集中の度合いを高めた時、
ボールペンを本気で立てようと「少し本気で集中しよう」と考えた時、
確かに音は静かになった瞬間があった。
しばらく試して実際にボールペンは立ったのだが、
その時には他の刺激を知覚する余裕もできていた。
とすると、刺激の選択には今行おうとしている行動が関係していると思われた。
つまり、何かしようとしている時に、それを実現するのに必要な刺激を選んで知覚しようと
しているし、その行動しようとしている集中度、恐らくは行動の優先度を変化させることで、
集中したり、周囲の全体に注意を払ったりという選択ができるというわけである。
とすれば、次の知覚したい刺激を決めているものは何かというと、
今、行動する目的としている事だということになる。
つまり、偶然に次の知覚する刺激が決まっているのではなく、
今目的としている行動にとって、
その行動を完遂させるために有効的な刺激を知覚することができるようにしているというわけである。
要は刺激を待ちうけている、というわけである。
とすれば、最初にありきなのは、選ばれる刺激ではなく、目的ということになる。
今行おうとしている行動ありきで、選ばれる刺激が変わる。
それならば、行おうとしている行動を決めるのは、
これまでの考え方であれば、習慣ということになる。(参考049)
習慣である程度行動の内容が決まり、
それを目的として行動し、
その行動に際して必要な刺激をその瞬間瞬間において知覚する。
それを効果的に行えるように、瞬間瞬間の不確定な周囲の環境の変化に対応しながら行動する。
というわけである。
で、少し話が飛躍したが、
意識が生じるための認識であるが、
この認識自体は刺激の知覚、刺激を知る事、に他ならないが、
この認識を誘導しているのが行動や目的ということになる。
さらに言えば、行動や目的を誘導しているのは習慣ということになる。
ある瞬間において習慣や行動、目的を考えているわけではないのだが、
そのある瞬間における認識しようとしている刺激を選択する基盤には、
その習慣や行動、目的があるというわけである。
何となく自由意志に反する因果的なものも感じるが、
その自分の立場、場所において、その習慣を得るのは
最もエントロピーの低い状態であると言える。
そこに存在してそうあるべくしてそうある。というわけである。
ただし、それが決まるのも継続して刺激を選択してきた結果であり、
そこには自由意志が存在した結果の話である。
未来に因果は無い、過去に自由意志は無い。今は忙しい。
というわけである。
どういうわけかというと、
認識は、今置かれた環境と自分自身の知能が持つ目的によって
その瞬間において認識されるべき刺激が誘導されて選択される。
その選択によって知覚された刺激がシナプスを励起し、
その瞬間で最も強い刺激が想起と同じシステムで認識される。
それの繰り返しが意識となる。
意識は、その知能が持つ目的の実行の間に、
優先的に認識され続ける連続した刺激の認識ということになる。
意識というものについての解釈が一歩進んだ感じだな。
目的ある行動の最中には、優先されて認識されやすい刺激があるということになる。
あくまで意識は連続された刺激の認識ではあるのだが、
その認識される刺激は、目的によってある程度誘導されているというわけである。
つまり、意識があるという意味の内容としては、
目的により優先された刺激を連続して認識するということだと言える。
では、目的無く意識は存在しないかということになるが、
目的を意識しない行動というものも存在するのである。
生命活動をしている間、つまり睡眠中以外になるが、
この生命活動中の行動の優先度は、その都度変化し、
ぼーっとしている状態も特別価値がある目的ではないが、
目的としては成り立つものである。
この辺りの関係性についてはまた後程。
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