2021/6/23

認識について

052でも書いたが
もう一度書くと、
認識というもの全ては、
ある対象を認識しようとした時、
その対象に関する全ての刺激をセットで想起し、
その想起時の励起によってそのセットの刺激が
その瞬間の最大刺激となるためにそのセットの刺激が
認識されることによって対象を知覚することになる。
ということである。

認識される刺激が知能にとって新規のものであっても、
既に過去に経験、記憶している刺激であっても、
その刺激を単独で記憶したり、想起したりということはない。

刺激は単独ではあまり意味をなさないためで、
刺激が複数含まれることで意味を持つ刺激のセットとなる。

刺激自体は五感に関するもので、それぞれは単独の刺激なのであるが、
単独の刺激は刺激としての意味はあるが、それだけのものである。

白い色は視覚の刺激としても白い色であるが、
ただ白いだけである。
これが、シャツの白なのか、ごはんの白なのか、
空の雲の白なのか、それだけで単独の刺激ではありえないものになっている。

記憶するにしても、確かに単独の白という刺激は、
記憶されるが、白を想起した場合に、ただ白いというイメージを想起できるが、
何かそこに別の意味合いは含まれていない。

今はこれを書いている例として白を対象として想起するという目的を作り出し、
実際に白を想起してみると、白い何か平坦な白を想起することができた。
やはり、その白には白いだけの意味で、白を想起しようとして白が想起できた、
という目的を達成したという意味の他には、他の意味は含まれていなかった。

と思って050の最後の方を読んでいたら、
単独の刺激には意味がないと自分で書いていた、
ふと、考えると、今白いマスクの内側を見て、例に白の色を出してみたのだが、
視覚としての白の刺激は単独だが、
その記憶としての白色には、既に複数の刺激が含まれていた。
そう、「白」である。

もう、自分の中で白い色は単独の刺激と思っていたが、
そうではなく、既に「白」という名前が関連付けられていたのである。
マスクの内側の色の刺激はこういう色、という刺激と、
そのこういう色は「白」であるという関連である。

あらためて書くと、
単独の刺激にはあまり意味がないという意味は、
本当の意味での単独の刺激にはあまり意味がないということである。

白色を見て「このような色」であるという資格の刺激には、
ただその視覚的な刺激だけであり、
それが見えているというだけの認識であるというわけだ。
そこに「色」だの「白」だのという分類や名称の刺激は、
「白色」として認識しようとした時には関連付けられているというわけである。

単に、この視覚の刺激とこの視覚の刺激は違うとか似ているとか同じという
認識はできるし、そういう認識も存在する。
しかし、それらの視覚から得られた刺激に対して、
「白」であるとか、「色」であるとかの情報は
既に脳内の刺激の認識の際に関連付けられているということであり、
あえて、単独の視覚の刺激として認識しようとして、その刺激を
認識しようとしないかぎり、すぐにでもセットで想起されようとするほど
いくつもの刺激の要素が関連付けられているのである。

自分では何の気なしに単独の刺激として扱っていた記憶の要素は、
すでに複数の刺激の要素が含まれていた。
それほどまでに自動的に知能がある対象の刺激を認識するということは、
刺激を関連付けて記憶しようとしているということである。

これまでの考え方を改めなくてはならないな。

単純に刺激の単体を取り扱おうと思ったら、
五感に関する刺激に分類するのと同じように注意深く、
その他の要素、一番は名前や刺激としての種類の分類などについても
分割する注意深さが必要になる。

そもそも、「刺激」という名前が付いている時点で気づいても良さそうだが、
とはいえ、今の時点で気づいて良かった。

生命としての知能の誕生は、
初期の頃においては、単独の刺激についての認識だけだったとは思われる。
最初は五感のうちのどれか、恐らくは触覚、次は味覚か嗅覚だろう。
細胞に最も近い所の刺激としてはこの3つが考えられる。

その後、その刺激に意味合いが付くのは容易に想像できる。
益となる刺激か、損となる刺激かである。
この時点で、刺激には価値が存在することになり、
刺激によって対象に差を生じるきっかけとなる。

対象に、刺激に価値の差が生じるということは、
自然に考えれば、益となる刺激を求めるという行動に行き着くだろう。

自然界において、まして生命の初期状態においては、
損となる刺激イコール死ということであったかもしれないが、
死を乗り越えるだけの数も増えただろう。

刺激に価値という要素が加わり、
生命は益となる刺激を求めて、または、益となる刺激の存在する所で
増えていく事となる。

次は自らがよりよい益となる刺激を求めて何かをするというよりも、
自然界において、よりよい益となる刺激の下で、勝手に増えるということになるだろう。
場所が悪ければ死ぬか減るかである。

生命の起源についてはまだ不明であるが、
知能の発現については、生命誕生の後であるはずであるので、
知能の発現については、正解にたどり着けるだろう。

この時点での刺激の認識は、
連続した刺激の認識で、知能基準においては意識があるということになるが、
刺激を記憶して想起して認識するということができていないため、
刺激を入力して判別できても、認識には至っていないためまだ
この時点では認識はできておらず、意識も存在していない。

認識は、その刺激に対して、その刺激が何であるかを知覚することが認識である
ということである。
その刺激が、刺激であるのだが、何の刺激であるのか知能が知ることが出来なければ
刺激だと分かっていても認識されているとは言えないということである。
つまり、認識できている前の刺激の知覚は反射に近いものだということである。

反射は刺激を受けて反応することができるが、
その刺激が何であるかは知る必要がないし、知ることが出来ない。
刺激は認識されて初めて刺激として知ることが出来るためである。

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ここからは少し思いついた事を述べる。

体が大きくなるにつれ、刺激の伝達に関わる速度の問題がでてくる。
これを効率的に処理するために脳ができたと考えられる。

体が大きくなるということは、
行動もできるようになるということである。

感覚が発達するということは、必要に迫られて機能を備えるというか、
機能を備える事の出来た生命が生き残ることになる。


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