2021/6/20
都合の良い想像
人間は時々何かの問題があると
自分の都合の良い方に考えるという事がある。
都合の良い方に考えたがると言い換えもできる。
「自分だけは大丈夫」という考え方である。
実際にその問題は何かの不安要素であったり、
悪い事が起こる可能性もあることは自分でもわかっている。
とはいえ、その問題に対しての解決策を持っているわけでなく、
また、その問題自体が自分自身にそれほど大きな影響を与えないと
認識しているわけでもないが、
何となくその問題はそれほど大きな問題でないと考えたいと感じる事である。
楽観的な考え方とも捉える事ができるが、
楽観的というのは未来全体に対しての自分の総合的な立場や状況が
悪いものではないと考える事で、
この場合における、楽観視は、問題を認識した上であっても、
まだ自分は大丈夫であると考えることである。
日本では近年多くの災害が発生しているが、
この災害時にこの楽観視によって実際に被害を受けている場合がある。
「自分だけは大丈夫」という考え方はどこから生じるのか考えてみよう。
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まず問題に直面した場合でも自分は大丈夫と考えるのには、
その問題についての解決の方法を経験していない場合と、
思考の正常性バイアスの理由が考えられる。
正常性バイアス自体は、そもそもが、自分自身の直面した状況に対して
想像の範疇を超えている場合に働く機能である。
思考の働き自体は正常であるのだが、その直面した状況が異常であり、
自分の置かれた環境と状態についての価値設定ができない状態である。
過去に似たような経験をしている場合や、
それらについての関連した記憶を持っている場合、
想像によってその状況を関連した状況であると認識し、価値設定を行うことが出来るが、
これらの経験や記憶が無い場合は、その状況を新たな状況として認識し、
価値の設定を開始することになる。
新たな経験の認識には労力を必要とするというのは
習慣などでもこれまでにも書いてきた。
自然においては生命はできるだけ労力を必要としないように、
エネルギーを温存して存続して生きていこうとするのが理想という考え方である。
それはエネルギーを多く必要とする知能としても同じように言えて、
何かあるごとに、労力やエネルギーを消費して事を認識し、解決するというのは
無駄が多い。
であれば、まず、何か理解、認識できない状況に直面した場合は、
一番楽なのは
まず、過去の似たような状況と関連する要素があるか思い出して適合するか
確認してみる。
それで関連する要素が無い場合は
仕方がないので新たな状況として認識することになる。
実際そうなのだが、
まず、経験がない、関連した状況の記憶がない状態では、
その直面した状況の認識に対して、その状況の結果について分からない
想像のつかない状況であると認識することになる。
これが正常性バイアスということになるのだが、
状況は認識できるが、その状況の今後の変化は分からない状態のままであるというわけである。
実際に現実の状況は感覚から刺激として入力され、
認識されてはいる。
しかし、この状況は新たな状況であるので、
この先に何が起こるかとか、どのような変化が起こるかの予測ができないのである。
この状況は別に災害についてだけの事ではなく、
自分が初めて経験する状況についてはこれが当てはまる。
ただし、1つだけ正常性バイアスと異なる新規の経験の状況があって、
これは、自分が決定した新たな状況、
つまり、自ら意識的に行動した結果として新たな状況に直面するという場合である。
この時は、自ら行動するという時点で、ある程度の想像の結果を得ており、
その結果は行動を実行するに足る価値があるものとして認識しているため、
その直面する状況が新たな経験や認識になるとしても、すでに想像する価値は持っているため、
これが間違っていたとしても、正常性バイアスが働くことはなく、
単に想像や想定と間違っていたという状況として価値の設定の変更と
経験の記憶としての関連する要素が増えるだけになる。
これは、その状況があらかじめ価値設定がされていることによって
経験自体が初めてであっても、価値設定が間違っていてても、
その直面した状況に対する関連して比較する記憶を持っていたということになる。
一方で、経験や予測の記憶がなく、
周囲の環境や、状況の変化により、
強制的に個体がその状況に置かれることになった場合、
知能はその状況についてどのような認識を行うかというと、
最初に、今自分自身の置かれた現実の状況については認識を試みることになる。
刺激の入力は済んでいるわけであり、その刺激の認識も実際に刺激として受けているので、
認識を試みることはできる。
そして、今の周囲の状況を過去の記憶から関連する記憶があるか想起することになるのだが、
ここでは、関連した記憶を持たないので、想起に至らず、認識できないことになる。
状況の刺激は刺激として認識できるが、状況が理解できないということである。
そして、その理解できない状況であると
そこから先の状況や未来の想像や予測ができない。
この場合は知能はどのように働くかというと、
知能自体が活動しない状態になる。
こうなると本能の出番となる。
何か行動を起こすということもなく、ただ自分の身を守るという状態である。
実際にこの状態では、周囲の様子をうかがうとか、安全そうな場所を探すとか
そのような行動はとれるが、
大きく場所を変えたり、広域について思考を巡らせるような
客観的な物の見方ができなくなる。
主観の自分中心の保護のための思考や行動となる。
正常性バイアスとも異なることになるのだが、
自分だけは大丈夫という考え方というよりも、
自分だけを大丈夫な状態に置こうという考え方になるということである。
思考や想像により行動してその状況を回避することに価値を設定して行動するよりも、
まず今の自分を守る事を価値ある事として認識しようとする。
それが今回の都合の良い想像という答えとなるだろう。
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正常性バイアスなどと言葉にこだわると
思考がその方向に狭められるように感じる。
自由な発想には言葉に縛られないように専門用語などを使わずにおくのが良いだろう。
結果として専門用語の意味になったとしても、
それはそれで、確証が1つとれたと後で考えればよい。
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で、まぁ、今回の書いた内容は、
途中から正常性バイアスがでてきたために分かりづらくなっているが、
結果的には、正常性バイアスの考え方というよりも、
状況を状況として刺激の認識できても、想起による認識としての確認・理解が
できないためということになる。
ここの確認・理解というのは意識する事とも考えられる。
これまで、刺激の認識は、刺激を受けた後、その刺激についての関連した記憶を想起した後に
認識できるものとして考えてきた。
今回の問題ある状況に直面した場合、
これまでの考え方であると、
その状況は刺激として受けて、その状況の刺激について関連した記憶がないため、
想起できる記憶が無く、認識できないということになってしまう。
災害時であっても、状況は認識できているはずである。
いや、その状況は状況として認識できているが、
その理解ができていないということである。
理解できない認識もあるということになる。
これは新しい考え方ということか。
「認識はしているが、理解できない状況がある」ということ。
認識はあくまで認識であって、その後の状況の判断などには
価値の設定が必要であることはこれまでの考えで容易に考えられる。
2つの対象の判断には価値が必要不可欠だから。
思考自体が、価値判断の積み重ねであるので、
そうすると、認識しても、価値の設定ができる・できないという状態があり、
その2つの状態に対して知能の働きが変化するということだろうか。
理解できない、判断できない認識があるという考え方としては、
分からないこともない。
例えば、今画眉鳥が鳴いているのを聞いていて、
それを認識はできているが、その鳴いている意味については理解できていない。
私が想像すると、この想像の時点で自分に都合の良い考え方となるのだが、
あれは画眉鳥が今自分の位置を知らせてなわばりを主張しているか、
異性へのアピールのために鳴いているのだろうと考えた。
これまでの考え方を少し変更するなら
これまでは
「刺激には認識する際に、一度知能・脳内で刺激として入力した後、
一度想起することによって刺激が認識されることになる。」:「043_現時点まとめ」より
刺激を認識するのは、
刺激を受けて、脳内で一度刺激として想起してから認識されると
していた。
しかし、今回の都合の良い想像という点では、
今回の災害などの特異な状況を認識しようとする際には、
脳内で刺激として入力した後、想起される対象が無いという状態もあるということである。
この場合、刺激として認識されるが、想起される対象が無い状態のまま
現在の状況が認識されるということであり、こういうこともできるという事になる。
このような場合、画眉鳥の例でもあるように、
鳴き声を認識はしているが、認識だけという状態もあるということである。
また、その鳴き声に対して思考しようとした場合は、やはり
想起する内容が必要になるため、この場合は、勝手に都合の良い記憶と関連付けられて
想起され、認識されなおすということになる。
つまり、何らかの状況を認識することに対しては、想起する場合も、
想起しない場合もあり、それでも状況などの刺激の認識はできるということになる。
しかし、認識はできたとして、
想起する関連する要素を持たない認識については、思考や、判断の対象にはならず、
思考するためには自分勝手でも良いので都合の良い想像などによる
関連する要素がその認識に関連付けられる必要があるということである。
連続した刺激の認識が意識であると考えているが、
意識はあっても常に全ての刺激の対象について思考したり判断しているわけではないので、
まぁ当然と言えば当然ということになるだろう。
自然はシンプルを好む。であるので常に認識し、常に思考しているのでは
エネルギー的にも不利になってしまうからね。
今回新たな知能の考え方としては、
刺激の認識には脳内で特定の五感の刺激として受ければ認識できる。
そして、
その刺激について、またその刺激の認識について思考・判断するためには
その刺激・その刺激の認識について関連する刺激の要素・記憶を想起して
記憶として取り出す必要があるということ。
実際、刺激の認識の時間的に少し後でしかその刺激や刺激の認識について
記憶の中の刺激としてしか思い出すことができない。
これはとりもなおさず、刺激の認識については想起を必要としないでもできるが、
何かその刺激や認識について、思考しようとするためには、
一度記憶としてからでないと思考する対象に使うことが出来ないということである。
記憶するためにはその対象となる刺激に他の関連する要素を含めた形でないと
記憶できないため、そういうシステムとなる。
付随的には
記憶や思考の対象となる刺激については記憶の塊として価値も設定される。
価値の設定なしに思考や比較、判断が行えないためである。
今日はこの辺で。
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