2021/6/18

習慣の価値

基本的に何かの行動を取るとき、
それは必ず価値の判断を行っている。
価値判断は知能の活動の基本であるが、
その判断のきっかけとなる物の1つに習慣がある。

今回はその習慣とその習慣の決定や作成と
それに関わる価値について考えてみる。

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価値は知能の活動の判断の全ての基になっているが、
行動する時の価値として
咄嗟の判断による行動と、
習慣的に継続して行う行動がある。

咄嗟の判断については、その瞬間の状況において、
過去の記憶より得られる経験により、
脳が瞬間的に価値の判断を行い行動するものである。
しかし、
これが習慣として、継続して行われる行動であった場合に、
その価値はその行動が選択される時の何処に存在して、
判断が行われるのか。

そもそも、習慣は、その行動そのものに価値が既に設定されており、
それを実行することは、生命として、知能として、価値ある行動であると
既に記憶されているものである。

習慣の獲得は、成長の過程で、
生活のタイミング、時間のタイミング、社会のタイミングなど、
様々な周囲の環境の状況に応じて、最適と思われている行動を
習慣として記憶することである。

ある年齢に成長したら、この時間には起きて、
朝食を取り、保育園、幼稚園、学校へ、会社へ、行き、
そこでのスケジュールに合わせて行動し、
ある時間になったら自宅へ帰り、その後の行動をし、
夜に寝る。
これを曜日ごとに変えながら一週間を過ごし、
ひと月を過ごし、一年を過ごしてまた来年の成長に合わせて行動を変える。

習慣は人間が社会生活を送るうえでの代表的な行動の例であり、
その例に従って行動することで、最も効率的な生命活動が行えるとして
基本的な行動の模範例となっているものである。

知能がなぜそれを選ぶのかというと、
そもそも知能にとって新しい事を記憶したり判断したりすることは
本来の生命としてはエネルギーな不利益や
不測の事態に対しての不安を持たなくてはならない事などの心配をすることなどにより、
生命の保持に不利な事を選択する可能性があるため、
余計なエネルギーや労力を背負わなくてはならないということにある。
であれば、
楽に、苦労せずに、その例となる行動を選択することで、
エネルギー的にも、余計な判断をしなくて済むという点においても
有利であると知能が考えるのである。

習慣を誰が作ったかというのは、あまり意味がなく、
その時代や土地、環境においての人間の社会的活動の中で取捨選択され、
もっとも効率的と考えられる行動が集められたものが習慣となる。

人間が社会的な活動をする上でも、皆が同じように習慣による行動を選択した方が、
社会を築くうえでも、運営する状況でも楽になる。
社会を構成する者たちも、その運営をする人間たちでさえ気づいていない事が多いが、
社会とはそのままその生命が獲得した楽に生きるための習慣の集合体である。

人間の社会においても、
大多数はその習慣に基づいて生活し、大きな選択や判断をすることなく楽に生きられる。
社会を代表する人間達であっても、過去の習慣に基づき、さらに新しい習慣を考える程度の事である。

現代は、国際社会の中において各国の習慣の違いに合わせ、
また各国がその互いの社会の干渉について折衝することになるが、
人間全体としてはそれこそが地球上の人間の習慣ということになっている。
違う国同士は互いの利益と損を計算し、互いの寄り添える道を探しながら、交流する。
話が合わなければ戦争し、話が合えば平和条約を結び、
そういう事を含めて、現代の人間の社会の習慣となっている。

さて、
話を身近な所に戻して、
それらの人間の社会、地域、近所、自分の習慣において、
価値がどのあたりに関係してくるのか考えよう。

まぁ、もうほとんど答えが出ているのであるが、
習慣における価値は、人間が、知能が、都度判断しなくて良いように、楽をできるように、
過去の判断を参考にして得られた最も有効らしい判断の結果の集合体と、
その判断の基となる選択のことである。

要するに、人間がある状態に置かれた場合に、
その状況で最も楽で有効らしい行動の記憶、それが習慣である。

各個の知能によって記憶も異なるため、
習慣となる内容も異なるが、習慣であるという自体は、
その知能において、選択するのが最も容易で、最も有効らしいと判断しているものである。

判断が行われたということは、そこに価値も存在しており、
この時の判断の価値は、習慣として記憶されている行動と、
その習慣と関わらない別の行動の価値の比較ということになる。

平日に朝起きて食事をして学校なり会社へ行くのは、
その個体の生活において、最も価値として有利な行動であると判断しているためである。
平日に朝起きて食事をして突然学校や会社へ行くよりも、
休んで遊びに行くとか、自宅で寝ているというのは、それも価値の判断によるものであるが、
突然平日に休むという習慣に反するマイナスの価値と、
自分の自由に行動するというプラスの価値の判断を総合的に思考して判断するという
ひと手間が加わる。
通常はそのひと手間を省こうとして習慣の行動を選択するのであり、
習慣とするのはそれだけの価値を内包するために習慣となるのである。

しかし、その習慣の価値も絶対なものではなく、
突然学校を休んで遊びに行ったり、会社を休んで遊びに行ったりすることもある。

社会的にはズル休みなどと呼ばれたりするが、
それは社会に反しようとする事を社会として認められないが故に
マイナス評価の価値を設定するのであるが、
これらの評価のマイナス価値を覆すだけの選択を行う場合には、
その判断となる選択があるということであり、
このような習慣に反する選択を行う事もできる、そういう選択を考える事もできるというのは、
当然でもあり、忘れがちではあるが、習慣に反する事も価値を設定できるのである。

習慣とは自分が決めた価値ではないのだが、
社会的な生活を、選択を出来るだけしなくても良い楽な生活を送るために
人間たちが自分たちで決めていった価値なのであるが、
現在はその本質が見えないように工夫され(習慣に反するのが悪いという評価をする習慣になっている)、
また見ないようにしている(習慣に従っていれば楽であるから)が故に
価値があることにさえ気が付かなくなっている。

時より習慣に縛られない人間が現れると
羨望と軽蔑を含めて否定しようとする習慣(価値)となっているが、
価値の選択においては習慣に従わないことも当然の価値判断の結果でもある。

完全に自由な選択、判断だけすると、
まぁそもそも社会自体が成り立たないことになってしまい、
楽に生きていこうとする大多数の人間が生きられないことになってしまうが、
それを理解して習慣に従っているのと、
分からないまま習慣に従っているのでは大きく生きる意味が変わってしまうことになる。

理解して従うのは自制であるが、
理解せずに従うのは従属である。

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少し話がそれるが、
社会的な問題でもある自殺はこの辺りに問題が隠れていると思われる。

習慣の価値に従うのが絶対であると思えば思うほど、
習慣自体で習慣に反する事をマイナスの価値であると決めているため、
それに反するマイナスの価値が大きくなる。
やがて自分の存在の価値をこのマイナスの価値が超えることになると自殺することになるのだが、
本来、そんなマイナスの価値は存在しないという事を知らなかった、
知ろうとしてこなかったが故の自殺ということになる。

まぁそのような事を考えられる余裕がないから自殺することになるのだが、
少しでもふと思い返す余裕が残っているなら考えてみるといい、

今、しがらみのない無人島に一人放り出されたら、
それでも自分は自殺を考えるだろうか。

一人で何も考えずにぼーっとしていてもやがてお腹が空いてくる。
その後は、今後自分は生きていけるだろうかという問いになる。
社会や習慣の価値などは無人島では何の意味も無いのである。

そもそも考える内容が価値の判断と生存の判断にすり替わってはいるが、
つまりは、価値の判断がない所に行けば
選択の結果、何をしようの判断にはなるが、
自分の価値を比較して自殺するかどうかの判断を行う必要すら無くなるという事である。

習慣とその価値は、人間が作り出すものであり、
それを習得する形で自分の価値として、他人と共有する価値として
活用するものではある。
しかし、それを分かったうえで自分の判断した結果の価値も持つべきである。

自分の決めた価値は例え小さな判断による価値であっても、
他人が、社会が、習慣が決めた、全体の大きな価値を否定できるだけの力がある。
それは、価値を決められるのは自分だけだからである。

自分が良いと思えばそれは絶対に良いのである。

まぁ、それを言うと戦国時代の切腹も認められることになるが、
その時代においては切腹には価値があったのである。
少なくとも切腹と自殺は違うのである。
自分の選択の間違いにより責任を取ることに自分の命より高い価値があると考えられ、
その結果として切腹になるのだが、
自殺が自分の存在の価値を低いものとして考える事に対して、
切腹は自分の存在の死を価値の高いものとして考えていることである。

まぁこれも自分の考え方としての価値であるので、
他人にとっては違う見方や価値であるかもしれない。
こればかりは堂々巡りになって結論は出ない。
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話を戻して、習慣の価値である。

習慣の決定と作成、その価値の設定。

習慣が作られるのは
その土地、そこに住まう人たちにとって
生活を続ける上で、都合の良い選択であるということである。
同じようなケースにおいて、同じような選択を行う事が
大多数にとって正しい判断となる場合である。

都度判断する必要がない多数で共通する判断があった場合、
この選択と判断がセットになって習慣となる。
土地の決まりや掟というような形で最初は決められたかもしれない。

そして決まりや掟ができると、それに従う事が良し、
従わない事を悪し、という決まりができる。
これは、判断を強制するということにすることで、
判断に対する疑問をそもそも生じないようにする働きがある。

生まれてその土地で育っていく間に、
決まりや掟はその者の価値として習得される。
自分が決めた価値でないとしても、
幼い頃からそう教えられればそれは、その者の価値となる。
たまに決まりや掟に従わない者も現れるが、
その場合は何らかの罰などにより社会としての決まりや掟の価値は保護される。

これらによって決まりや掟などは習慣として
生活の一部になっていく。
世代的に生存世代と被教育世代が同じ価値を持つようになれば、
その選択と価値は習慣になったとして考えられる。

さて、時代の変化や環境の変化によって
習慣や判断、その価値に変化が起こるようになる。

この場合、習慣自体の選択の判断や価値を変えなければならないようになる。

例えば、男も家事や育児をするべきである。という考え方。
男の家事や育児には価値がある。という習慣の変化がある。
もうしばらく前からそうは言われていたが、
なかなか全世代でまだその共通の判断と価値には至っていない。
これについては習慣の変化の過渡期であると言える。

例えば、男も女も勉強をするべきである。という考え方。
もうこれについては性別の関係なく勉強をするべきという
全世代の考え方になっていると思われる。
学力には性別に関係のない共通の価値があるという考え方になり、
これについては習慣になっていると言えるだろう。

ただし、全世界的に見てはまだ世界の習慣にはなっていない。

温暖化や経済格差、性差の問題、
についてはまだその判断の過渡期にあると思われる。

朝起きて昼働いて夜帰るのはほぼ大多数の世界の習慣ではあるが、
夜働く人もいるし、昼寝ている人もいるし、世界全ての習慣ではない。

人間としてエネルギー源を取り込む、これは全世界の全人類の習慣ではある。
点滴の人も小食の人も、大食いの人も、何らかのエネルギー源なしでは
生きていけない。
であればこそ、飢餓などでそれができない状態というのは、
世界の人類の問題であるという価値が認識されている。
今後、食料不足も懸念されているため、
人間にとって大きな価値のある問題であると言える。
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