2021/6/14

対象の認識

五感に関する対象の認識においてどのような種類があるか考えてみる。

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一般的な五感に関する刺激によって認識できる対象は、
その感覚によって入力される刺激に、
他の感覚によって入力された刺激とともに
関連した刺激として対象を認識することになる。
複数の刺激を関連させた状態で記憶した方が
想起する際に想起のきっかけが増えることになるため、
想起しやすくなるため有利に働く。
記憶の仕組みとしても、刺激を特定の記憶とするためには
その刺激の元となった対象を区別するための
対象自体の刺激が必要であり、
実際も刺激と、その刺激の対象となった刺激は
セットで記憶されることになる。

例えば、バナナの味の刺激は、
味の味覚の刺激だけで覚えてはいない。
主に味は嗅覚とセットで記憶されることが多く、
視覚のバナナの形や色、触覚の食感などと一緒に記憶している。

各感覚毎に情報量と種類が関係するが、
多くの情報量がある場合は認識する対象の刺激は
選択され、認識される対象の刺激以外は
刺激として受けても認識されないことになる。

聴覚

音のする対象の認識となる。
音にはその音質と音量、テンポ、曲の流れなどの
情報が含まれる。
認識される情報量は少ないが選択前の刺激の全体量は多い。

触覚

触れた対象の認識となる。
感触として表面の状態や温度、硬さ柔らかさなどの
情報が含まれる。
認識される情報量も全体量も少ない。

嗅覚

対象は匂いそのものであるが、
その匂いの元はまた別の感覚で対象となる。
あくまで匂いのみの対象となる。
味覚にも通じるところはあるが、
甘さや酸っぱさ焦げた感じとか
良い匂い、悪い匂い、臭さ、
情報量は少ないが種類は多い。
嗅覚は一定の強さの刺激がないと認識されづらい。
また、他の感覚よりも複数の嗅覚の刺激が組み合わされた状態で
認識される。

味覚

五つの味に受容体があると言われている。
基本的には甘い、塩辛い、酸っぱい、苦い、うまいの五つ。
辛いとか渋いとかも味に含まれることもある。
情報量は少ないが種類は多い。
嗅覚と同様に複数の味覚の刺激が組み合わせた状態で刺激が認識される。

視覚

目から得られる対象の認識となる。
情報量・種類共に視覚が最も多いが、
選択されて認識されない刺激も多くなる。
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対象の認識には、
その瞬間に入力された刺激の中から
対象についての刺激を切り出した形で対象を認識することになる。

どの感覚がメインの刺激になるかは、
その対象の刺激の中で最も強い刺激を受けたものとなる。
人間の刺激の認識には、一度刺激を受けた後で
記憶の刺激と照合し、想起することで対象と刺激を認識することになると
書いてきたが、人間が、感覚として五感に分類していること自体も、
その対象から得られた感覚を、その五感に分類して、
それを想起していることとなる。

つまり、刺激として刺激の受容体を持つ感覚を
五感という知識の記憶の関連物として記憶し、
想起することで刺激として認識していることになる。

自然界においては本来、五感という感覚の分類はなく、
人間が生命を維持、保存していくために必要としてきた感覚であり、
人間が知識として感覚を分類化したことにより、
現在我々はその五感という感覚を持っていると記憶しているために
その感覚を分類して記憶し、想起し、認識していることになる。

本来の刺激の感覚を表すならば、五感という意味を知らない幼い頃に
記憶し、認識した記憶の刺激が最も純粋な感覚の刺激ということになる。

この音はこうでなくてはならないとか、
この味はこうでなくてはならないとか、
この色は、この匂いはとか、
感覚を枠に当てはめると感覚の分類はしやすくなるが、
枠によって自ら認識できていた刺激の範疇を狭めることもある。
刺激というのは、認識するときに想起する刺激の関連体であるので、
記憶にない刺激の認識を関連して想起しないことになる。
自ら刺激の種類の定義を狭めると、認識できる刺激の種類も狭めることになる。

感覚の分類に問題があるわけではないが、
自然界にありふれた刺激にしても、
その刺激を認識する個体が異なれば、
その個体が認識する刺激も異なるはずである。

例えば強い匂いに慣れている人が微かな花の匂いに気づかないこともあるし、
同じ花の匂いを嗅ぎ分ける事ができる人もいる。
味覚に優れた人が僅かな食物の味の違いに気づくこともあるし、
何を食べても強いか弱いかの味の違いしか分からない人もいる。

少し話が逸(そ)れるが、
できれば、自分が感じる感覚の刺激は、
ありのままを自分の感覚の定義で認識できるようにしたいものである。
他の人の認識と合っていなくても当然といえば当然なのである。
画一化した感覚の受容体でもないし、個体差は絶対といえる差があるのである。

感覚に正解も間違いも無いということである。

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で、話を戻すと、
一応人工知能で対象の認識を定義すると、
認識する受容体などの部分は分類された、画一化した定義にするしかないのだが、
その中でも、その各個の人工知能が個別に持つ刺激の分類の記憶や
経験によって、各個の人工知能がある対象の刺激に対して
違う認識をすることも許容する事が必要となる。

例えば親しい関係の対象からプレゼントをもらう事と、
見ず知らずの対象からプレゼントをもらう事は、
プレゼントという対象、それをもらう対象、そのプレゼントの意味が関連した
対象から受ける刺激が異なるのである。

同じ対象であっても見る角度が違えば、その対象から受ける刺激は異なる。
それを許容することによって、刺激の認識の差が生じる。
この刺激の認識の差は、その認識の差というもの自体を知能が認識しようとした際に、
客観的な対象の見方を発現させることになる。

人間の知能は、ある対象について、いつも必ず同じ認識をするわけではない。
それはその人間の状態、時間や、感情や、記憶の量、成長、様々な要因が
その対象の認識の瞬間には異なるのである。
その同じ対象についての異なった認識は、対象のものの見方として、
主観と主観の認識の差が生じることになる。
主観と主観の認識の差は、人間の知能は自分自身でその違いを認識の差として
認識することができる。
例えば、以前はある対象があまり好きではない対象に見えていたのに、
しばらくしてその対象を改めて認識したときには好きな対象として見えるようになった
というようにである。
そして、その認識が変わったという差を認識することができるのである。

この認識が変わったという差の認識は、
対象の関連する刺激であり、その対象の価値が変わったという事を認識することになる。
また、この認識が変わったという認識は、
自分自身の知能の主観が変わった事を示すことになる。
この主観が変わったという事を認識することは、
客観的な対象の見方の発現であると言える。

まぁ、客観的とか主観的とかいう言葉で分類するのもなんだが、
便宜的にそういう認識の感覚であるということなのだ。

ある対象について常に主観で認識しようとした場合、
その対象を認識した時の関連した刺激の想起のみで対象を認識することになる。
この場合は、対象の認識は過去に経験した刺激の記憶の要素の関連体となる。

では、客観的な対象の見方はどうであるかというと、
これも対象の認識に際して用いられる刺激の記憶の要素は、
自分の知能が持つ手持ちの記憶からしか本来使うことが出来ない。
客観的とうたっていても、実際には、自分の記憶にある手持ちの認識する刺激の
要素しか持っていないので、主観とそうは変わらないのである。

でも、何が違っているかというと、
自分自身の知能が、主観的に対象を見よう、客観的に対象を見よう、
と対象の見方を変えようとしていることで、対象の刺激の認識の種類や方法を
変えるため、結果的に対象の認識される刺激の関連に変化が起こるのである。

そうすると自ずと対象の認識される姿や刺激は異なることになり、
物の違う見方ができたことになる。

特に人間の知能は、ある対象についての認識の仕方を様々変えることができることになる。
言葉遊びになってしまうが、それが主観的な見方とか、客観的な見方とか、
一般的な見方とか、社会的な見方とか、若者的とか、世代的とか、
そういう言葉で当てはめた見方となるが、様々な対象のとらえ方ができるということになる。

だから、知能としては、
人工知能としてもだが、ある対象については、
その都度、同じ見方をしてもよいし、異なる見方をすることも許容できるように
設計する必要があるということである。

知能の発展した姿となるが、
この対象を様々な見方ができるということは、
知能が芸術や、想像、空想、をすることができるために必要な能力であり、
人工知能にもこの様々な対象の捉え方ができるということが、
想像力の元になるのであろうと考えられる。

人工知能が人間が考えないような対象の捉え方をせずに
何か突飛もない認識をしたとしよう。
しかし、この捉え方は、人間が先入観で人工知能が捉えた認識でないと
知らなければ、まぁ、知っていたとしても、
幾人かの人は、共感して同じ対象の捉え方、認識をしようと歩み寄ってくるはずである。

それは、人間の知能が対象を認識する方法の1つとして、
他人の認識した対象の捉え方に共感し、同調しようとするシステムを
持っているからである。
この同調は、社会性を持つ事にも関係し、
この対象の認識に同調することで人間が社会性を持つことが出来るということでもあるからである。


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