2021/6/13

価値観の構成

価値観は対象の価値を算出するために使われる。
記憶の際に刺激とともに記憶される要素の1つである。

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価値観は対象を認識しようとした時に、
その対象の関連した刺激として想起されるときの要素の1つである。

対象の価値が直接記憶されることはなく、
価値観という対象への印象のような漠然とした評価としての意味として
価値観が記憶される。

価値観は知能の成長や個体の成長、経験、時間の経過によって変化する。

対象について関連した記憶の要素が追加される場合に、
その対象についての価値観の変化がされることが多い。
まぁ多いというか、ある対象について関連する経験を新たにすることで、
新たな価値観としてその経験と刺激が記憶に追加されることになる。

ほとんどの記憶の要素は時間経過とともに弱くなっていくが、
この時、その記憶の要素の1つとして価値観も弱くなっていく。
その結果、その価値観に対しての想起が起こった場合も、
時間経過によってその価値の絶対値としての大きさは小さくなる。

ということは、対象の価値観が変化するというよりも、
その対象に関連して記憶された要素の価値観の追加により
その対象の価値観の絶対値の大きさと、プラスかマイナスかという意味の大きさが
変化するということなのだろう。

ある対象について長い間、認識されることがなければ、
やがてその対象についての価値観と価値の大きさは小さくなっていき、
自分に対するプラスやマイナスの意味も小さくなっていく。

逆に、ある対象について頻繁に認識する機会が多ければ、
プラスかマイナスかの意味合いとは別にしても、
その対象について関連する要素の認識が多ければ、
その対象の価値観としての絶対値の大きさは大きくなっていく。

例えば、家族と過ごす時間が多ければ、家族の価値はプラスかマイナスかは別としても
大きな価値観と大きな価値を持つことになる。
しかし、成長するにつれ、友達などとの付き合いが増え、過ごす時間が増えていけば
友達の価値はプラスかマイナスかは別にして大きな価値観と大きな価値を持つようになる。
一方で、家族と過ごす時間が減っていけば、
それまでの価値観としての大きさは維持されるかもしれないが、
他の対象との価値の大きさは相対的に小さくなっていき家族という刺激の影響が減っていくことになる。

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話は変わるが、価値観の操作はできると言える。
内容的には教育も、マインドコントロールも本質的には同様の
価値観を構成するための経験をさせるということである。
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価値観の構成は、
ある対象から刺激を受け、その刺激を対象として認識しようとする際の、
本質的には五感の刺激の感覚を脳内の特定の野に刺激を受けた時に
その刺激について快感か不快感を感じるかどうかという事になる。
ある対象から受けた刺激を認識する際に、同時に快感を感じるのであれば、
その刺激は価値観としてプラスのものであるし、その刺激を発する対象も
価値観としてプラスの対象であると認識することになる。

逆にある対象から不快な刺激を受けるのであれば、その対象は
不快な刺激を発する対象として認識することになる。

要するに価値観は、その価値観を設定される対象から発せられる刺激が
自分にって快か不快かということである。

快か不快かの定義は、基本的には五感の感覚における刺激としての
快か不快かという意味である。
知能としての記憶が増えてからの快か不快かの定義は、
その対象について関連する記憶の要素も増えているため
ある対象から得られる刺激も最初から五感だけでない刺激も同時に
関連して認識されることになり、
それぞれの関連して想起された刺激の総和としての価値観が
第一印象としての価値観となる。

例えば、ある人を見て、見た目は不細工だが、身なりがきちっとしていて、
明るく元気であるので良い印象を受けたので、価値観としてはその人の価値観としては
良いというものであるとか、
人によっては見た目が不細工であるので、それだけで判断して価値観としては悪いと決めることもある。
また、見た目は美しいが、ぼーっとしているので、価値観が低いと判断することもあれば、
見た目が美しいだけでも十分価値観としては良いと考える人もいる。

価値観を決定する際に使われる要素は、
それまでの価値観を決める要素として用いてきた刺激を認識する要素の観点として
考えることが出来る。
その人、その人が持つ知能が、これまで何の刺激について価値が高い要素、価値を判定する要素として
用いてきたかという事と、その要素について認識した事で、
その要素を用いたことで上手くいったかという経験によって価値観を決める要素としてきたか
という事が重要となる。

同じような刺激や対象について同じように高い価値を持つと考えてきたような人たちがいた場合
、 これらの人たちの価値観は特定の対象について同じように高い価値を持つと感じるようになる。
類は友を呼ぶというのもそういう事である。
また、ある対象についてまったく異なる価値観を持っている人たちがいた場合、
その人たちは互いの関係性を持つことはないだろう。

朱に交われば赤くなるとか、
郷に入っては郷に従えとか、
人の価値観というものはそうして経験した事によって変化し、
変化させていくことで適応していると考えられる。

価値観は、そもそもが知能の判断におけるもっとも重要な要素の価値の大本であるため、
その判断によって知能を持つ本体の自分自身がよりよく生命の維持をしていくために
効果的であるように働くのが最も効率的でもある。

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一方で価値観の中でも譲れないものがあるという場合もある。
価値観を変えるくらいなら、変わり者として価値観の維持を図ろうとする場合もある。

基本的に価値観の変更は、その対象の変更ではなく、
その価値観に関連する要素の新しい価値観を記憶することによって起こるため、
新たな価値観を覚えない、覚えようとしないことで価値観の変更を阻止することになる。

であるなら、価値観の変更を良しとしない人については、
新たな価値観を覚える余裕がないか、覚えたくない場合、
その要素自体の対象の価値が低いと既に認識しているような場合に
価値観の変更を拒否することになるだろう。

信じる対象というのは、盲目的に価値の高い対象であると認識した場合に
発生する。
信じるという反対の意味合いとして、
信じる対象を変えることに対して、否定的な価値観を同時の覚えることによって
起こり得る。
信じる対象を変える事は、否定的な価値であると認識させることである。

この辺りはマインドコントロールやカルトについて言える。


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