2021/6/7

好きと愛の価値

ある対象への価値観として一定以上の強度を持つ
認識の刺激の強さを持つ対象となった場合、
その対象は好きや愛の対象となる。

記憶として刺激の認識と、その関連した刺激の繋がりを含め、
その対象に含まれる全ての刺激の要素をまとめて
その対象の刺激、記憶となるが、
この時のその対象への価値観の設定は、
過去から現在までその対象から得られた記憶の価値と
現在から未来にその対象から得られるであろうと推測する価値の総和となる。

その対象から隔絶される場合、
現在から未来に得られるであろう価値が失われる状況となると、
知能は不安を感じる。
本来であれば、得られたであろう価値が失われるのであるから、
刺激の総和としは目減りすることとなる。

何か未来に得られるであろう価値を失った場合、
知能としてはその価値を得て幸福感を感じられると期待していたが、
そういかなくなったときに知能は不安を感じることになる。

好きや愛の価値というのは、
これまでに得られた価値というよりは、
現在から未来にかけてその対象から得られるであろう価値についての
期待を込めた価値の、価値観を構築することになると考えられる。

要するに、今後も価値を得られるであろうから好きである、愛しているということになる。
好きや愛の対象として、そこから得られるであろう価値は、
五感の刺激としての組み合わせとなるだろう。

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好きや愛という形を取らずに共にいるという状況

これは例えば付き合い始めてから10年とか、20年とか、
もう面と向かって好きとか愛しているとかいう状況でなく
それでも一緒に居るという状況は普通に訪れる。

このような状況にあっても、
習慣として一緒に居て、お互いに生活する上での
予測される価値があると知能が認識すれば、
一緒に居るという状況を価値あるものとして認識することで、
そのままの状態を継続しようとする。

この状態ではすでに好きとか愛しているとかいう状態ではなく、
一緒に居る事が自然であったり、
一緒に居ない状態を未来への不安に感じるようになる状態にあると言える。
要するに互いの依存が依存した部分の喪失に関する不安となるため、
そのまま一緒に居ようとするという状況である。

しかし、この状態で好きでない愛していないかというとそういうわけでもなく、
そもそもの好きであるとか愛しているという状態が、
この未来に予測されて得られる価値の認識にあるとすれば、
その期待される価値の量としてのスレッショルドによって
好きや愛という表現の状態になると言える。

要するに、好きや愛の状態というのは、
特定の形態や、状態の事を表すわけではなく、
その知能が、その互いに居る状態においての未来に得られるであろう価値の
期待量について好きや愛の状態であると認識しているということである。

二人の関係があったとしても、一方では好きや愛の状態になっていたとしても、
逆の一方では何とも思っていないという状態にもなる。

例えばアイドルとファンの関係。
親と赤ん坊の関係。

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好きと愛の違い

未来に得られるであろう価値の期待値という意味においては、
双方に大きな違いはない。
異なるとすれば、その依存度と期待される価値の量となるだろう。

価値という点での依存度は、その価値観における価値の高さの認識が
他よりも多いか、強度に優れ、
その価値観を持つ知能が認識する価値の中で非常に高い価値を持つ
部分を占める価値の数と量が多い状態の度合いの事である。

依存度が高い状態では、自ずとその関係から得られるであろう期待される価値も高くなり、
期待される価値の量も増える事となる。

対象を好きとなるためのきっかけとして、
一定の将来に得られるであろう価値の期待量があるスレッショルドの量を超えた時に
「好き」となる。

その基準値は、その知能が持つ価値観において、
その対象に対する価値の評価の認識の総量である。
それは、過去に認識できた価値の量と、
未来に得られるであろう期待される価値の量の総和ということになる。

依存度という点では、
その知能がその時点における認識できる能力の中で、
その対象を認識する刺激の占める割合ということになる。

つまり、その知能が普段、評価し続けている価値、意識の中で、
その対象について考える事が増えていき、
その割合が多くなればその価値の認識の中での依存度が高くなるということになる。

普通は、期待される価値の量が増えていけば、
自ずと認識したりする時間も量も増えていく、
そうすると依存度はさらに高くなり、やがて恋や愛を認識することになる。
単純に考えれば期待される刺激の認識量が増えただけということなのだが、
恋や愛を感じる当人にとっては、認識している刺激の内のかなりの割合を
その対象からうける刺激を認識することとなり、どうにも自分では抑えきれない状態、
恋している愛している、というような感情にあると認識することになる。

刺激を認識すればするほど、認識の総量に占める割合は増えていく。
そうするとさらに、自ら認識を連続することになり意識する。
意識すればさらに認識に繋がることになる。
外部の要因などで強制的に認識を途切れさせない限り、
一度そのような状態になると抜け出せないことになる。
恋は盲目とはよく言ったものである。

一定量の認識が過ぎて愛の状態になると一方的でない限り
ある程度の互いに得られる期待される価値の量が保証されることになる。
そうなると失われる不安以外には期待される価値の量は定量化するため、
未来に期待される価値に安心できるため、
他の認識に余裕を回せることとなる。

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人工知能にとっての好きや愛

オキシトシン等のホルモン的な部分や、触覚に関する感覚については、
その感覚を人工知能に加味することができないが、
価値ある存在である対象から受けとることのできる価値として
未来に得られるであろう価値を期待するようになれば、
その対象について好意を持ったり、愛の感情を得る事もできると考えらえる。

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さて問題は、過去の価値の認識を持った状態で、
恋や愛の状態にありつつ、対象を失う等で未来の期待される価値の認識の機会を
失った場合である。

ここで、喪失感や焦燥感という状態を認識・意識することとなる。

新たな刺激に対する認識は対象が喪失することで
必ず時間経過による刺激の強度の低下は起こる。
しかし、それまでの間は、過去の刺激の価値を想起したり、
未来に予想された刺激の価値の認識の想像を行ったりで、
その対象の認識を継続することは明らかである。

認識の内の依存量が多ければなおさらで、
しばらくは認識の強度が落ちるまで時間経過を待つしかない。

意図的に他の刺激を認識することで依存の割合を低下させることもできる。
例えば仕事に集中するとか、スポーツして集中を別の認識に振り向けるなど。

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悲しいと価値

未来に得られるであろう価値が失われると悲しいという状態の刺激の認識となる。
知能が独自に価値を基準として失われたとして認識するのは、
知能の勝手な機能、エゴでもあるのだが、
そのようにして悲しいという認識をすることが必要とされてきたために
仕方のない事でもある。

予測や推測、想像において、未来に得られるであろう価値のある対象を失う可能性があるのであれば、
知能としてはその後の悲しい状態を回避しようとして新たな予測や推測、想像、思考をすることとなる。

これも価値基準ということなのだが、そうして知能の発達と環境への適応を進めたことになる。

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2021/5/31の記録にある「喪失感と焦燥感」の時に感じるような感覚は
確かに時間経過によってその時感じていた感覚は間違いなく弱くなっていく。

そういう刺激の認識に慣れたというよりも、
やはりその時に認識していた喪失感の刺激の認識が弱くなっている感じである。

割り切るとか、考え方を変えるというよりも、
生活をする上で、常にそれだけを考え、その刺激を認識したり意識したりする
というわけにもいかないので、否が応でもその他の刺激は認識されることになる。

先に書いた認識の内の占有割合に応じて、さらに喪失感を感じていた刺激の認識以外の
刺激も受けるようになり、自動的に占有割合が減ったという事である。

今も、一定量の刺激の認識が続いているので、完全に刺激の認識が切り替わったという
認識と意識はないが、少しは感覚として楽になった認識はある。

人間欲のある物で、その対象の刺激が弱くなってくると、逆に忘れたくないという
予測、思考、想像が働くようになる。
これは過去に認識した刺激の価値を時間経過で弱まってしまうのを回避するためか、
想像でもよいから未来に得られるであろう価値の保存を考えているのであろうか、
そのような認識であろうと考えられる。


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