2021/6/5

益と損の思考

これまで価値として扱ってきた刺激の差については
その内容が益であるか損であるかで
判断が行われるという考えに行き着いた。

その知能を持つ個体にとって益であるなら選択され、
損であるなら回避、否定するという意味である。

全ての行動原理、判断材料の上で、
最終的に判断の理由となるのが、この益か損かということである。

一見、益であるように思えても、過去の経験の記憶、未来の想像によって
総合的に益でないという判断が下される場合もあるし、
一見、損であるように思えても、これも過去の経験の記憶と、未来の想像によって
総合的に益であると判断される場合もある。

この辺りの考え方は平滑に言えば、価値がプラスかマイナスかということであるが、
単純に予想される刺激の差としての価値の算定というよりは、
その個体にとっての価値観の総合的な計算の上に成り立つ
計算結果としての益か損かということであると考えられる。

何か1つの刺激や価値としてプラスかマイナスか判定して、
それを様々な要因に対してそれぞれ計算しているというよりは、
その判定する要素に対して想起される要素全てに僅かな時間で判定され、
益か損かを判定しているように感じるのである。

つまり、ある判定要素に対して、それを認識して想起した際に、
その想起した内容が、自分に対して益であるのか損であるのかが
自動的に感覚として計算される。
この時、想起に際して関連して記憶された内容がその判定される全ての要因であり、
その判定材料に対しての価値観としての判定は、その想起された全ての要因にたいして
同時に行われ、その要因の強さ毎の益か損かの刺激の強さの総和が
その判定要素に対して認識され、想起された時に感じる判定結果となる。

つまり、判定要素について認識し、想起されて意識された時には
既に益か損かの判定は完了しており、その想起されたときの総和の刺激は
すでに益か損か判明しているということになる。

何かの対象について認識し、意識した際には、
その時の価値観における判定結果も同時に認識、意識されることとなる。
想起そのものが、益か損かの判断、判断結果の認識、意識と同義であるからである。

益か損かについていちいち各要素を洗い出して、意図的に認識しようとしたり、
個別に想起しながら益か損かの判定もすることはできる。
しかし、こういう状況は、個人で行う判定というよりは、複数人で行う判定であり、
通常、常に一人で行っている判定、判断は、個人的な価値観による判断である。
右に進むか左に進むか判断するのに分岐点でいちいち色々な要素について考えることは
普通はしない。判断を目前にすればすぐに答えは出ているはずである。
そうでなくては自然界の判断には無駄が多すぎる。
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自然界は単純を好む。
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判定する要素をわざわざ認識して意識してから益か損かの判定を行う事もある。
それでも、その要素を認識しようとした際には、既に記憶の際に関連して記憶された要素が
、再び想起の際に認識され、その認識の際にはその関連した要素が既に益か損かが判明している。
その総和を想起の際に、あたかも意識的に考えて益か損かを決めたかのような感覚で想起されることとなる。

想起自体が、想起の際に関連して記憶された要素全てが対象となって想起の対象となり、
これがほとんど自動的に行われるため、自由意志で行っている猶予はない。
結果的には経験の因果ということにはなるが、自己の価値観を挟んだ経験の結果の価値観に対する
因果ということになるので、自由意志というよりも、自己の価値観による因果ということになる。

過去から今にかけて
その環境にあり、その経験をして、全てにおいて因果的ではあるが、
まだ起こっていない未来は、因果の中にはない。
今というその全てが過ぎた後にあるのが因果であり、
今その先にあるのは不確定な未来と、自由な想像ということになる。

自由意志は未来にあり、現在と過去にはない。
因果は過去にあり、現在と未来にはない。
現在にあるのは全ての存在の価値観である。

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想起の際に関連して思い出される要素には強さがあり、
強さがある要素にしては認識することができるが、
弱い要素については益か損かの総和の内には入るが
認識されないような要素もある。

要素の記憶の刺激の強さは後から変化する場合もある。

他の関連する要素として想起されたり、新たな刺激の要素として
再記憶されたりして強化されることがある。


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