2021/6/4

愛の概念

愛の概念としては「いとおしい」(愛おしい)に尽きる。

---------------
先に好きと嫌いの価値について考えたが、
その好きの延長に愛があるのとするならば、
好きと嫌いが対象との価値のやり取りの関係で
好きや嫌いという感情を持つようになるのであれば、
この延長上にある愛については、
その対象との価値のやり取りを超え、
対象そのものについての価値を、より価値の高い対象であると
認識したときに愛となると考えられる。

対象がすでに価値の高い対象であるならば、
そこから生じる全ての刺激を認識した際にはすべて価値の高いものであると
認識されるようになる。

一般的な感情の関わらない対象から生じる刺激を認識した場合、
知能が自分自身で持っている価値観からその刺激の価値は設定される。

しかし、この時、すでに対象の価値が設定されており、
その価値から生じる刺激を認識した場合は、
その価値の認識と価値の設定において、知能が自分自身で持っている価値観だけでなく
すでにこの対象が持つ価値に加算される形で価値の認識と価値の設定が
行われるという事である。

価値が高い対象であるならば、多少のマイナス価値の刺激であったとしても、
もともと持つ対象としての価値の高さから、加算されてもそうそうマイナス価値にはならない。

何かの問題があってもプラス価値は維持され、
その刺激を認識したとしても擁護する関係となる。

ただし、この際はマイナス価値が存在したという経験により、
対象としてのプラス価値の減少が発生することになる。

繰り返しマイナス価値の刺激が発せられるなら
いつか対象としてのプラス価値は底をつき、マイナス価値の刺激の認識に変わることになる。

この時はすでに対象についての価値の設定はマイナスとなり、
興味を失っているか、好きや愛という感情からは離れた対象の存在となっている。

---------------
そうであるなら、
ある程度、対象としてのプラス価値を積算していった場合に、
どこかの時点のバイアスを超えた場合に好きから愛に変わるともいえる。

個人差はあるだろうが、例えば我が子に対しての愛情は
人それぞれであるが、生まれた時点での初期値としての対象の価値の高さは、
他にないほどであるし、母性愛や父性愛などの我が子に対する対象の価値の高さから
すぐに愛情と認識できるだけの対象の価値の高さを持つ事となる。

また、恋愛対象についても、
まずは価値の設定のある生活圏の周囲に存在する対象であって、
最初は何か対象から得られる価値がある存在として認識できる存在が居り、
その対象との関係を続けた結果として
その対象の価値が高まっていった結果として、好きとなり、
さらに対象の価値が高まった場合に愛になると考えられる。

---------------
対象についての価値については
これも知能が持つ価値観によって対象の価値の評価も変わるために、
一般的にという考え方になるが、
この自分自身が持つ価値観において、高い価値を持つ刺激を得られるのであれば、
対象の価値は高くなり、
逆にマイナスの価値を持つ刺激が多く得られるのであれば、
対象の価値は低くなる。

価値観の内、常識と言われるような皆がある程度共通化した価値観の中で、
個人的に特異な価値観がない限り、皆が同じようにして高い価値であると
認識できる刺激であれば、その刺激は対象としての価値を高める効果がある。

例えば、お金持ち、頭が良い、人気があるなど。

また、制度的に人類が共通して価値が高い存在とする要素もある。

例えば、家族、友人、親戚、同じ国民、市民など。

個人的な主観的な価値観の内でも、おおむね他と共通化する価値であると認識できる要素もある。

例えば、かっこいい、かわいい、きれい、面白いなど。

個人的な特異な価値観となるともう千差万別であるが、
マニアックな趣味であるとか、フェチシズムであるとか、
そのような価値も存在はする。

---------------
地道に価値の高い存在となりえるためには、
まず対象の価値観を優先して考え、
その価値観に沿った価値の高い刺激を多く与えることである。

一定の価値を与えることで、対象から逆に見た時の自分という対象の価値の高さを高めることで、
好きや愛への対象となることができる。

まぁ注意点としては、この認識をした上で、相手からの価値を高めようとする意図が知られると
逆に下心という刺激により、相手からマイナス価値として認識される場合もある。

---------------
人工知能が愛を持つには

人工知能が愛を持つにはまず、
自分自身の価値の認識ができること、
愛の対象となる相手の価値の設定ができること、
そして、自分自身の価値観を持つ事、
そして、常識と言われる価値観を持つ事、
あとは、その対象との価値のやり取りの経験としての積算の価値の保持ができること。

プログラム的に言えば、
どのような相手となる対象であっても、積算により、
プラスの価値が積み重なっていけば対象として常に愛の対象とまで
成り得ることになってしまう。
しかし、自分自身の価値観として、
譲れない価値観によりプラスに上限があるのであれば、
その対象に好意はあっても好きや愛まで価値が増えることはない。

一般的な人間の価値観としても、好みとしての価値観が存在するため、
対象があらゆる点において、よほどのマイナス価値の設定がされていない限りは
何があっても嫌う対象とまではならないが、
価値観の上限があるとすれば、好きや愛の価値のスレッショルドを超えないという価値も
存在することになり、現実に即した価値の形となる。

そう、個人が持つ価値観の価値の要素によっては、対象の価値の設定において
価値の上限という要素があることが必要となる。

価値の上限という点については後でさらに考えても良い。
つまりは、個人、知能が持つ価値観において、
ある要素の価値の設定には上限があって、
その知能がある対象についての価値を設定した後、
さまざまな経験により多くの刺激を認識し、プラスの価値が得られて
対象の価値が上昇したとしても、その要素においての価値の上限が決まっており、
それ以上の対象の価値の上昇につながらない場合もあるということである。

例えば、物が好きだという対象が居たとしても、
プレゼントを与え続ければ延々と自分の価値が上昇することはないということである。
相手から見た自分という対象の価値において、
その、プレゼントが得られるという刺激の価値に上限があって、
それを積算したとしても上限に近づいた後は積算されて行かないということである。
場合によってはプレゼントを与え続けても、
逆に、別のうっとおしいとか、しつこいという刺激のマイナス価値で
容易に自分の価値がトータルでマイナスに変わる事も考えられる。

そもそも対象としての自分の存在がすでにマイナス価値であるなら、
そこから対象に与えられる刺激というのは、容易にプラスにはならない。
マイナス対象から得られる刺激はそもそもがマイナス刺激なので、
よほど価値観としてプラスの刺激の要素でない限り、
その刺激はマイナスであるということが考えられる。

もしくは、対象としての影響が少ない対象であると認識されている場合、
実際は分からないが、アイドルに対してのファンの関係において、
アイドルにとっての対象としてファンの存在はプラスの価値の対象ではあるが、
そこから得られる刺激というのは多くのファンの内の1つであるという
認識から、プレゼントにしても応援にしても、ファン一人一人に対して
好きや愛という対象の存在の認識には至らないということである。

---------------
長く話がそれたが、
愛の概念ということになると、
この知能が持つ価値観の対象としての要素として、
非常に高い価値を持つ対象であるがゆえに「愛おしい」ということになる。

先の価値観の上限や、一般的な常識的な価値観、本能としての価値観などを合わせて、
それでも自身が持つ価値観の中でも愛する対象となりえる価値を持つ対象であると
なった場合に「愛おしい」と感じ、愛を感じることになる。

この場合、自分の価値観における「愛」する対象としての価値のスレッショルドも存在することになる。
一度愛する対象として認識されると、
この場合に愛という刺激を認識することになり、
その対象から得られる刺激が愛に関係するということになる。
それで、一度愛する対象となった対象はこの愛に関する要素であるということになり、
以降において愛の対象から外れにくくなる。
要するに、一度その対象の認識と愛の認識が関連付けた刺激として認識されるため、
以降のその対象からの刺激は愛という要素が想起されることになり、
なかなか愛という想起を含めた刺激の認識をマイナス価値にすることが難しいため、
一度愛するとその対象をマイナス価値として認識することが難しいということになる。

現実でもDVを受けても別れられないとか、そのような状況においては、
現実的な価値観の認識よりも、個人的な価値観が強く影響し、
暴力に対するマイナス価値よりも、
愛に対する価値観の価値の設定が高いために
なかなかその対象から得られる刺激の価値をマイナス価値の設定ができないということである。

---------------
(2022.7.16:追加)
現時点で愛の概念について言える事は、
自身が持つ価値観の中で、その対象についての価値を考えた場合に、
自身の個人的な価値の中で最上のもの、
つまり自我において最も高い価値の存在、例えば自分の命であるとか、
これに対して、
他我の対象における存在の中で最も高い価値の存在が、
自我の存在における価値と等しいか、高い価値を持つ対象となるものに対して
愛しているという表現が扱えるものだと考えている。
簡単に言えば、そのためであれば自分の命も惜しくない対象ということである。
まあ愛の概念についても普遍的なものは存在しないので、
正しいとか間違っているというモノにはならないのは自分でも注意したい。


TOPに戻る