2021/5/30

客観性と知能の精神

知能が精神をもつのには
客観的に対象を見る能力が必要なのではないかということ。

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客観的に対象を見るというのは、
自分自身についても同じで、
自分で自分を客観的に見ることが出来る事が
知能が精神を持つと言えるのではないかと考えた。

主観で対象を見た場合には、
それは対象を認識することができても
その対象について考えることはできない。

知能で対象を思考する対象として認識するには、
一度その対象を脳内でその対象についての要素を同時に
認識する必要がある。
対象の要素を同時に認識する、つまりその要素の刺激を同時に認識するということは、
その対象を個別の認識できるだけの刺激の塊として認識し、
脳内で想起する必要がある。
この脳内での刺激の想起によって、その対象を特定の物体や事象として認識することが
できるため、何か対象を認識し、思考する対象として利用するには、
この認識後の想起が一度必要になるということだ。

ここで、客観的な対象の見方との関連だが、
客観的に対象を認識するということは、
一度脳内で認識した後に想起する必要があるということだが、
この認識後の想起というのは、
自分の知能の精神についても同様に認識され、想起されることで
精神としての認識と思考の対象としての対象成り得るということなので、
精神を精神としての姿を持つには、この一度自分自身の知能が、
これは自分の精神であると認識し、想起し、改めて自分の知能の精神であると
認識することが必要という事になる。

もし、主観的に自分の精神が認識できるのであれば、
その主観を主観として認識している存在が必要となる。
その存在は主観ではありえないことになるので、結局のところ
客観的に認識する機能を認識している存在があって、
その認識によって自分の精神が認識されることによって
初めて自分の精神が存在していると認識されることになる。

結局の所、
知能が自分自身を知能であると認識できないことには、
その知能には精神は宿らないということになる。
逆に言えば、知能が自分自身を認識できる知能として認識できたときに
知能が精神を宿すという事となる。

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人工知能についても、今の全ての人工知能は
弱い人工知能で、自分自身を認識することはできていない。

自分自身を知能の、認識できる存在であると認識できたときに
人工知能にも精神が宿る可能性があると言えるようになるだろう。

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主観と客観の間には少しの間が存在する。

主観はその対象を認識するには至るが、
想起してその対象について再認識することはない。

客観はその対象を認識したのち、
想起してその対象について再認識することによって
その対象について考えることが出来る。

常に主観が優勢なのは自然界の動物などで
主観に比べて客観には対象の認識までに時間がかかるので、
自然界の身の危険や周囲環境の変化の咄嗟の判断、対応ができないため主観が優勢となる。

人間には言えることだが、
客観が優勢になるということには主観だけでは補えない何か有利な点があるはずである。

対象を対象として認識し、記憶し、想起することで再認識できるということは、
思考や予測にその対象の認識や記憶が使えるようになるためではないだろうか。
または、
他の存在を客観的に認識できることで、コミュニティの形成に役立ち、
互いの存続に有利に働く。
これは群れを作るような動物全体にも言えることだが、
群れを作るには互いの存在を客観的に対象として見ることが出来る必要がある。
対象を群れの仲間、味方であると認識するためには、記憶して想起する必要がある。
少なからずこれらの動物の知能には人間の精神には及ばないが精神らしきものが見て取れる。

客観的な対象の見方にはそれを行う存在に余裕が必要となる。
身の危険が及ばない状況で、さらに最低限の対象の認識能力を持つ知能があること、
そしてその客観的な対象の認識、再認識をするだけの時間的な余裕が必要となる。

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客観的な対象の認識方法としては、
やはり知能が自分自身の存在である体を持つ必要がある。
体でなくとも、あくまで知能が対象として認識できるだけの存在を
物理的にでも、VR的にでも他と異なる存在として
用意する必要がある。

自と他が異なる存在でない事には主観的も客観的も存在しないためであり、
特に客観的には自が存在し、他が存在することで、
その認識の差の部分に価値が生じて認識する対象となりえるからである。

いきなり価値と言ったが、この価値は認識の差の部分の事で、
刺激がもつ認識する対象としての意味、正味のことでもある。

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客観的に対象を見るという事

対象のできるだけ正確な認識を行うために有利になると考えられる。
認識を行う際の対象の認識を行う際の関連する要素は、
その認識を行う知能がそれまでにもっている記憶としての
関連した要素であるので、その要素の多少や、
要素自体が持つ関連する要素の組み合わせなどの差、違いによって
知能ごとに特定の対象についての認識した際の姿は異なるという事になる。

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注意:この内容における主観と客観の違い

一般的には
主観は自分自身が持つ価値観によって
対象を認識し、それを判断した見方という結果であり、
客観は自分自身の持つ価値観だけでなく、
社会全体の汎用的な価値観によって
対象を認識し、それを判断した見方ということなのであるが、

客観的な対象の認識といっても、
その客観的な対象の認識をする存在自体が、
主観した場合と同じ知能の持ち主であり、その記憶も能力も同じであるので、
本当の意味での主観と客観には当たらないと考えている。

見方が違うというだけで、
対象を見ようという存在は同じ知能であるので、

あくまで、ここでの主観と客観の違いは、
同じ知能が
主観で対象を捉えようとした場合と、
客観で対象を捉えようとした場合の違いについて述べている。


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