2021/5/29

記憶の要素と思考の要素

記憶の要素としての刺激と
思考する際に用いられる記憶の要素は
元を同じくする要素の刺激だということ、
そして、その記憶と思考の要素となる刺激について
掘り下げて考えてみる。

---------------
基本的に記憶される情報としては
人間が刺激として体内・体外から得られる情報をもとにしているのだが、
これらの記憶されるべき刺激の情報の要素は
思考で用いられる情報の要素と同じものである。

思考に際して用いられる情報は脳内で保存されている刺激の記憶の要素しかない。
知らないことを思考に用いることはできないので、
必ず一度脳内で刺激として認識され、記憶された刺激の要素しか思考に用いることが出来ない。

そもそも思考自体が、脳内の刺激の要素の組み合わせを変えながら
思考で期待される高い価値を持つ目的であることろの解答に
合わせようとしているだけなので、
このことからも思考で用いている記憶としての刺激や要素というのは、
脳内で一度、認識された刺激に他ならない。

であるならば、これらの刺激の出どころを考えてみれば、
体内・体外から発せられて脳内で認識された刺激という事になる。

---------------
で、ここからが記憶と思考の要素となる刺激についての
掘り下げた内容になるのだが、
まだ知らないことを考えようとした場合、
手持ちの記憶としての刺激の要素のみが使われることになる。
これは、まだ世界に知られていないという要素についての思考についても
言えるのだが、まったくの無知から思考することによって
新たな刺激や思考による解答が得られるかというと、
これはまったくの見当違いか、でっち上げに近い
とりあえず答えを出してみましたという程度の答えの刺激となる。

しかし、これが全くの無意味かというと
その思考がどれだけ真面目に考えられたかを考慮する必要がでてくるが、
まず、真面目に考えた結果としての答えの刺激であった場合、
その時点での最良の答えであるには違いない。
正しいか正しくないか、真理であるかどうかというのはまた別の話となるが、
その時点で持ちうる限りの記憶から導き出した答えであるなら
その知能においては最良の最高の答えではある。

この答えが後に間違いであると指摘されたり、自覚したりするのは、
まず一度答えとして出した刺激の記憶の要素を導き出した結果として、
その答えが間違っているという別のアプローチができたということになる。
つまり、最初の答えは、その答えが間違っているという新しい刺激の要素を作るための
元となる刺激の記憶の要素になったということになる。
この答えは間違っているという記憶の要素になれたということだ。
後世の知能にとっては、この最初の試練金というべき要素があったおかげで、
これは間違っているというアプローチができたことになる。
ある刺激の記憶としての要素にこれは違う、これは違うというアプローチを
次々に行うことで、どこか、いつか本来の真理に近づくべき方向が示されることになる。
間違っていたという事の繰り返しのなかで、それを積み重ねる間に
いつか正しい真理に近づくことのできるアプローチが見つかるということだ。

知能が思考するというのはこれを脳内で完結させることということになる。

ある問や疑問ができた場合に、思考することで答えを得ようとした際に、
脳内で、ああだこうだと答えを出したり検証したりしながら、
最終的に自己知能の中での答えに行き着くことが思考するということである。

この場合は正しいか正しくないかは必要にならない。

自分の知能がもっともらしい答えであるという刺激を認識できたなら
それがこの自分の知能が導き出したもっともらしい答えとなる。

では、だ、この思考で用いられる要素としての刺激の記憶は、
多ければ多いほど、確かであれば確かであるほど
思考する際に用いることのできる思考するときの要素は多く、正確となる。

つまり、多くの事を知っている人間の知能は
その思考するという事について有利であることは間違いない。

研究者などで専門的な知識を持ち、より正確な多くの情報を知っていることは
その研究者が思考を実行する場合の助けになり、より正確な答えを導き出す要素となる。

また雑学などの多くの物事を知っていることは、
専門的な問題には不十分であるかもしれないが、
様々な複雑な要素の問題へ正確なアプローチをするのには大いに役立つこととなる。

専門的な知識が良いか、汎用的な知識が良いかは
思考する際のその問題の内容によるが、
どちらについても多くの事を知っているということは
思考にとっての使える要素が増えることになるので、
よりもっともらしい答えを得やすいということになる。

---------------
教育と知能と思考いう点について考えてみる

上記の内容から子供にとって大きく役に立つことは
とにかく多くの経験により多くの刺激を受け、
その知能にとっての刺激の記憶を多く持たせることということになる。

一見関係なさそうな虫の名前であったり、野菜の見た目であったり、
星座の形や、匂い、味、音、など
五感で感じられる多くの刺激は後の思考の要素として用いることができる。

さらに付け加えると、
何か新しい要素の刺激を認識しようとする際も、
過去の記憶している刺激の記憶は関連付けて記憶されるため、
その関連に用いることのできる刺激が多いことは、
新しい刺激の認識や記憶に用いることが出来て
より詳しく正確に刺激を認識し、記憶することが出来ることになる。

基礎ができているからこそ応用が理解できるのと同じ事で、
多くの刺激の要素を記憶していることは、
新しい刺激に対しても多くの関連付けを行う事の出来る要素が多いほど
より正確に、強く認識し、記憶することができることになる。

記憶の要素は増えれば増えるほど新しい、複雑な刺激としての
記憶の要素を認識することができるようになる。

この記憶の要素は次々に積みあがっていくので、
より多くを知っている知能はさらに多くを知ることが出来る
ということにもなる。

逆に言えば、難しいから、理解できないから、分からないから、知ることが出来ないというよりは、
理解するための要素の数が少ないために、
新しい事を知ることが出来ないということになる。

---------------
遊びや興味のある物事については子供は放っておいても
自分で学んだり、新しい事を知ったり、理解したりすることが出来る。
これを勉強にも役立ててくれれば良いのに、という意見はずっと昔から続いている。

しかし、遊びや興味あることについて新しいことを知るということは、
思考するという点においては十分な意味があることである。
例え遊びや趣味の刺激や記憶であっても、
それらがより多くの刺激や知識として記憶に残るのであれば
徹底的に知っておくべきである。
記憶の関連というのはある程度似た要素の関連付けで記憶されるが、
一見関係なさそうな記憶の要素の関連が記憶の際に関連付けされることもある。

遊びや趣味についてもより複雑な要素の刺激があるのであれば、
別の刺激や記憶の要素の理解や認識にも用いられることがあるかもしれないということである。

記憶の関連付けは、知れば知るほど多くの関連付けが容易となるので、
記憶の要素は多い方が良いのは間違いない。

---------------
教育の方向性という点では
後々知能的に有利に働くのであれば、
多くの記憶するべき理解するべき要素の多い物事を覚えるのが良いということになる。

ルールが多いとか、覚える名前が多いとか、そいういうことである。

最初から複雑であったり、要素が多い必要はないし、
最初から覚えられないと、覚えること自体が億劫になってしまう。

最初は簡単であったり、より興味を持つゲームのようなものであっても良い。

とにかく覚える要素が多いものが良い。

パズルをそろえるようなゲームよりも、
単純でも多くのキャラクターが出てくるゲームの方が良い。

人間は記憶としているゲーム性の中にも
より楽ができるような反射や直感が育っていく。
これは思考とは少し系統が異なる要素であるので、
後々知能や思考に役に立つ要素にはならない。


TOPに戻る