2021/5/22

物の名前と認識

物には名前がある。
知能が対象を認識するのには名前が必要となる。
名前があるから認識できるのではなく
認識するために名前が必要となる。
では名前以外にも認識する対象として有効になるものがあるだろうか考えてみる。

知能が対象を認識する際に映像や音声などの五感の刺激が必要となるが、
この時にそれらの刺激に名前が付くかというと全てに名前が付くわけではない。
ある刺激に対して関連する要素の記憶が関連付けられるだけで、
必ずしもその刺激を記憶する際に名前が設定されるわけではない。

いきなり答えに行き着いたが、
つまりは何かの対象を認識する際には
その認識する対象の刺激を記憶の基礎的な1つの要素として認識しようとし、
このとき、その要素に関連する要素を想起して関連付けることが
新たな記憶としての要素を追加するということになる。

この考え方の場合、
知能として生まれてすぐの場合、
成長初期の最初の方の記憶の要素はそれほど関連付けられるほどの要素を記憶していない。
しかし、認識される刺激として記憶はされる。
関連付けられる要素が少なくとも記憶としては刺激は記憶される。
少しづつ成長していくと、知能がもつ記憶としての刺激の要素は増えていく。
そして、新たな刺激を認識し、記憶しようとした時は、
少しずつ関連付けられる記憶の刺激の要素も出てくるはずである。
関連付けられていく要素は記憶としても少しづつ正確で複雑な記憶もできるようになる。

名前という刺激は視覚に分類されることになるだろうが、
この場合は既に名前という記号と音声が関連付けられており、
さらに1字1字の文字と名前という文字の繋がりいう要素が関連付けられている。
そしてその名前という文字・文字列と文字列の音声という要素、
そして、その対象が持つ刺激の新たな要素を関連付けて
新たな対象に名前が付き、その名前が要素の関連付けられた新たな要素として記憶される。

割と名前という記憶の要素は既に複雑な記憶としての多くの要素をすでに
関連付けられている状態にあり、高度な記憶であると言える。

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つまり脳がある対象を認識し、記憶するということは、
そのある対象を認識した際に含まれる全ての刺激の要素の関連を
まとめて五感から新たに受けた刺激と、その刺激に関連付けられて
想起された記憶の要素の刺激をまとめたパターンの刺激として
認識、記憶するということである。

そうであると、
頭が良いというような状態は、多くの対象を刺激として記憶することで
新たな複雑な要素、刺激について関連付けられる要素を多く持っている
ということになるだろう。
つまり、難しい対象の刺激を自身の知能が刺激の形で、対象を認識し、
記憶できるためには、その刺激に対して関連付けられるだけの要素を
持ち合わせている必要がある。
もし、この関連付けられる要素が少なければ、名前くらいは覚えられるだろうが、
その内容について関連付けられる要素がないため、
その対象について理解したというような認識には至らない。
もし、その対象について理解したと認識できるようになるには、
その対象を記憶する時の関連付けられる要素を多く持ち、
それらの要素とともに新たな記憶の刺激の要素として認識、記憶が
できるということが必要となる。

教育の観点から言えば、
ある対象について学ぶにはそれに関連した別の多くの要素を持っている必要があるので、
できるだけ多くの要素を持たせてやることが教育には必要であるということになる。
つまり、多くの経験こそが教育の根本であるということになる。
上手にできようが、失敗しようが、後の経験には別の意味での関連とはなるが、
違う見方ができる人間が別に存在できるということでもある。
しかし、この経験をしたことがない人間であれば、別の対象について
関連付けられる要素が1つ少ない人間となるのである。
ある対象に対して関連付けられる要素が1つ少ないというのは、
その対象を認識するための、説明するための要素が1つ少ないということになる。
これらの蓄積は、別の一見関係ないような対象の認識の際にも、
ましてや思考や想像の際にもその思考や想像で使用できる記憶の要素が少ないことになる。

1:子供には多くの経験をさせるべきである。
2:成功や失敗を評価する必要はない。
3:思考するために必要な要素を刺激として与え、経験して記憶させるべきである。

多くの記憶の刺激の要素を持つ人間は
さらに複雑な刺激の要素を記憶として持つことが出来る可能性が高まる。

子供に本を読ませた方が良いという考えもあるが、
文章よりも図鑑等の絵や写真を見せたり、
用語としての現象等を見せた方が記憶の要素は増えると思われる。


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