2021/5/16
好きと嫌いの価値
ある対象が好きであるというのは
その対象から価値あるものが得られるまたは与えられるため。
そして
ある対象が嫌いであるというのは
その対象から価値あるものが奪われるまたは消費されるため。
この好きと嫌いに対する価値観やその対象についての知能の反応について考える。
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人間に限らずある知生体がある対象を好むというのは、
その対象から自身が持つ価値観における価値あるものが得られるか
与えられるために知能が受ける刺激の感覚である。
また逆にその対象から自身が持つ価値観における価値あるものが
失われると感じる場合はその対象を嫌うことになる。
好きである嫌いであるためには、その対象が自身が持つ価値観において
価値が高いと感じる要素が多いか、価値がマイナスである要素が多いかによって変化する。
また、好きであると認識した対象に付属する要素全てを価値が高いと認識し妄信する場合もある。
嫌いである場合に全てを否定する場合もある。
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好きな対象が自分の嫌いな物を好きであると知った場合に、
自分がもともとは嫌いであった対象を好きになるという場合もある。
この場合は、好きな対象が好きな物を自分も好きになるということで
好きな対象と共感できるという刺激を価値ある刺激として認識する場合である。
これは嫌いな場合にも当てはまる。
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ある好ましい状態が失われると知った時点での
喪失感などはその価値ある好ましい状態を失うという価値の低い状態への遷移を
嫌うことになり、その価値の状態変化の差を嫌うために感じる感覚刺激ということになる。
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結局の所、
好きも嫌いも対象から受けることになる刺激であるところの
自分にとっての価値の変化の差の刺激ということになる。
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自分にとって非常に高い価値を持つ対象があったとしても、
別の他人にとっては非常に低い価値を持つ対象であるかもしれない。
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では、相手を好きになる場合について考える。
ちなみに嫌いになる場合はその内容を逆にして考えればよい。
好きになる場合、基本的にその好きになる対象から自分にとって価値の高い要素が多く
マイナスの要素が少なく、この価値の高いと感じられる刺激が多く得られるか、
与えてくれる場合に好きになる。
価値の要素はその知能が持つ価値観によって設定される高低は変化する。
また要素自体もその数も種類も知能によって増減、変化する。
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好きだ、嫌いだと設定した場合には
その対象が持つ要素の価値観に変化が起こり、
好きな対象が好きだという対象の価値は高くなり、嫌いだという対象の価値は低くなる。
また、
嫌いな対象が好きだという対象の価値は低くなることがあり、
嫌いだという対象の価値は高くなることがある。
しかし、そもそも好きな対象と異なり、嫌いな対象については
その嫌いな対象が持つ価値観についての要素は、
好きな対象がもつ価値観の要素よりも、より希薄である。
嫌いな対象をわざわざ大きな刺激として認識する事自体を忌避(きひ)するため、
もともと価値の低い対象である嫌いな対象についてあれこれ認識すること自体が少なくなる。
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さて、それでは好きと嫌いの価値はどのようにして設定されるのか考える。
まず単純に考えると生命としての欲求が満たされる対象については価値が高いとして
好むことになり、欲求充足を阻害される対象については価値がマイナスであるとして
嫌うことになる。
本能的に好きになる嫌いになるというのは、生態的な刺激の要素としての価値の高低による。
では、社会的な価値や、個人的な知能や知識の上で成り立つ価値についてはというと、
この場合はその価値を設定する知能が持つ価値観次第ということになってしまう。
周囲の人間の多くが価値が高いと考える対象があれば、
それを認識した際の価値は通常価値が高いと認識する。
金額であったり、大層な説明があったりということになるだろう。
既存の価値観があり、その対象を自身の知能だけで価値設定する場合には
先入観などの価値観が関わらないため、個人的な価値観による価値設定が行われる。
その後に周囲の人間がその対象についての価値を知ることになったとしても、
多少の変化はあっても大きく価値観を変化させることはないだろう。
教育の予防的な観点から言えば、ある程度の価値観は先入観として教えておく必要があるだろう。
これが良い事か悪い事か、私自身でも価値観が分かれるが、
私個人的に言えばできるだけ自分自身の価値観で多くの対象の価値付けを行った方が良いと思う。
が、社会的に言えば、ある程度の善悪の価値などは早いうちに教えてしまった方が良いと思われる。
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価値のバイアスと限界点
価値観にはバイアスがあって、ある一定の強さを持たない価値については
価値を持つ要素として認められない場合がある。
これは刺激の認識として一定以上の強さを持たない刺激は刺激として認識されないという
事によるもので、価値がある対象として認識されるには、一定の刺激としての強さが必要となる。
これは、マイナスの価値の場合についても同様である。
また、
価値には限界点があって、特にプラス面の価値には、一定の価値以上の価値を持つ対象としての要素は
価値ある対象として許容できなくなる場合がある。
要するに自分で価値ある対象としての要素の認識を自制できなくなるという事である。
価値の限界点まではある程度の強さを持った価値の刺激として認識できるが、
価値の限界点を超えた際には、その対象が価値ある状態としての認識に支障が起こり始める。
この場合、自身の価値観においてその対象の価値の認識ができない状態になる。
例としては恋煩いや妄信、マインドコントロール、魔が差す、
その対象を含む周囲の要素においての正常な価値判断が行えない状態にある。
犯罪を犯す場合もこのような状態だろうか。
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これに類推すれば、感情の爆発もこれらの価値の認識の限界点を超えたのと同じように
自分が認識できる感情の限界を超えた場合に感情が爆発すると言える。
楽しくて笑いだすのは、楽しいという状態を認識する限界を超えた場合に笑い、
悲しくなって泣き出すのは、悲しいという状態を認識する限界を超えた場合に泣き、
ということである。
例えば長く楽しんでいたテレビ番組が終わってしまうと知った時に、
それまで定期的に感じられた感覚の認識が失われてしまうと認識し、
何かぽっかりと失われてしまう恐れを認識した時に寂しさを感じるというような事。
この場合は価値ある存在であったテレビ番組が失われるという価値の喪失により
今までのプラスの価値の総和が相対的にマイナスになるという事を認識した事による。
そして、この解決について考える。
このテレビ番組終了という価値のマイナスについては
自分自身でどうしようもない事であると認識する必要がある。
何か行動しても行動しなくてもテレビ番組は終了し、価値の総和はマイナスとなる。
であるなら、何か別の対象のプラスの価値を追加するしかない。
録画しておいて価値の総和のマイナスに控えておくとか、
グッズなどを手に入れて価値の保持に備える等の行動をする。
ただ、その場合も新しい価値の期待という点では
継続された場合の放送の新たな機会が失われてしまうので、
この点についてだけは新しい何かで補填しなくてはならない。
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知らないことについての不安
知らない対象を怖いと思うのは知らない事への不安である。
つまり、知らない対象に対して価値の付け方が分からない状態にあり、
その対象が価値のプラスの対象であるのか、価値のマイナスの対象であるのか分からずに
価値観の観点から価値判断や価値の認識が行えないために不安に感じるということである。
価値が設定できれば、たとえその対象がマイナスの価値の対象であったとしても
嫌いではあっても不安に思う事はないはずである。
その対象は個人の人間であっても、社会構造であっても、国、人種、動物、昆虫、
様々な対象について言えることである。
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