2021/5/15

内受容感覚と共感

内受容感覚というのは体の内から発せられる刺激を認識する感覚のこと。

この言葉を知った時にはこの内受容感覚の知覚能力の違いで
他人の感情に同調するというような空気を読むというような能力に
違いが生じるという内容のレポート・論文のようなものだった。

普通に考えると内受容感覚は自分自身の刺激に対する知覚ということで
自分自身の体内で生じた刺激を脳で認識することになるのだが、
これらの刺激の知覚能力が優れている場合には、
周囲の環境にある他人から見て取れる視覚上の刺激の認識を
自分自身で自分の状態であるように上手に認識できるために
他人の感情の変化に同調しやすいと考えられる。

他人の状態の変化の刺激を自分が認識する時に
正確に認識できるか、不正確に認識されるかは
この内受容感覚にも関係しているということである。

レポートの中では、内受容感覚の正確さと感情の同調には
相関関係があるような事が書いてあった。

内受容感覚の正確さの確認には自分の鼓動の回数を
実際の鼓動の回数と、触ったりするわけでなく感覚のみで回数をカウントした時の差
ということで計っていた。

実際に自分でやってみたときは実際の鼓動の回数の方が多く、
感覚だけでカウントした場合は5割~6割くらいの回数で少なかった。

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単純に内受容感覚が鼓動の回数のカウントだけで計れるかは不明だが、
自分の内から発せられる刺激を認識できるという能力は、
外部からでも内部からでも同様に、
その他の刺激を同様に認識する能力にも関係しているはずである。

刺激の認識は繰り返せば繰り返すほど
その刺激に対する認識する能力は向上する。
そして、その向上した刺激認識能力はさらに高次の、詳細な、刺激の認識能力となる。

使った能力はさらに向上され、それ以上の能力を持つようになるというわけだ。
そしてその向上した能力はさらに向上し、と繰り返される。
逆に言えば、使わない能力は向上せず、低い能力はさらに使われずに衰える。
衰えた能力は益々使われず、さらに衰えるというわけだ。

これまで刺激の認識は、内部か外部から与えられた刺激で、
それを脳内で刺激として認識し、さらに言えば、そこで最も強い刺激が認識されるが、
この刺激を認識するというシステム自体は、
どれも汎用的なもので、刺激を受ける、刺激の受容体で信号にする、
神経を経由する、小脳、大脳で刺激として理解する、その時最も強い刺激が認識される。
これだけである。
ということは、内部からの刺激も外部からの刺激も同様に、
内部からの刺激に敏感で認識能力が高ければ、外部からの刺激にも同様に敏感であると言える。

全ての刺激においてとは言えないが、
少なくとも自分がその刺激に対して認識する能力が優れている刺激に対しては、
外部から得られた同様の情報についても認識する能力が高いと言える。

自分の感情の刺激に敏感であれば、
他人の視覚から得た他人の感情の刺激についても敏感であると言えるということである。

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共感は感情にも関係してくるが、
自分が知っている感情については、他人の感情についても知ることが出来るというわけだ。
これはこれまで書いていた脳が知りうる情報のみ認識できるということと同じで、
脳が喜怒哀楽を知っていれば、他人であっても、架空の存在であっても
その対象が喜怒哀楽を示した時には脳はその喜怒哀楽をその対象が持つ喜怒哀楽として
脳内に認識できるということである。

実際に自分の内から発せられた喜怒哀楽の刺激でなかったとしてもだ。
その対象の見た目の姿などの視覚刺激であっても、話を聞いた聴覚刺激であっても、
それがその対象が感じている喜怒哀楽の刺激として自分が認識できるというわけである。

共感という言葉に繋がるが、
自分が知る感情の刺激は、他人が今そうであろうという感情の刺激を外部から異なる形の刺激として
認識したとしても、自分の知る感情が呼び起され、対象の感情と自分の感情が同じであるような
感情の刺激の認識が行われること、これが共感ということになる。

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視覚や聴覚、まぁ感覚に関する刺激は、
自身が過去に認識し、記憶している刺激に関しては、
どのような刺激であったとしても、
外部から得られた刺激が、それら記憶している過去の刺激と同様の姿をしていれば、
その刺激を自分の記憶した刺激から仮想の姿の刺激として再構成して刺激として認識することができる。

人工知能についても同じことが言えて、
感情の学習というものがあるならば、
人工知能が認識する刺激として、最初に内から発せられる感情の刺激を認識し、記憶した後に
これが感情の喜怒哀楽の何かであると後から知るというものでなく、
最初に外部から見て取れたその状態を刺激として認識、記憶し、
後からこの記憶の刺激が感情の喜怒哀楽の何かであると後から認識しても良いという事である、
さらに、その外部から得た感情の刺激が、
人工知能の体の、知能の内から発せられるようになった刺激を認識し、
これが後に、外部から得て見知った感情であると共感しても良いということである。

人間であっても、幼いころによくわからなかった思いが、
何らかの感情であったと後から認識するのは、これもやはり成長の過程で
外部から見知った知識や刺激を得た上で、自分のこの思いが何かの感情であったと認識するわけである。

人間でも人工知能であっても知能を持つ存在は
成長の過程で得られる外部からの刺激、
細かいことを言えば、内部と外部の状態の差が刺激となるので、
この状態の差の外部からの刺激が感情に関するものであった場合に
感情の記憶がなされることになる。
そして、後に自身の内部から発せされた感情の刺激がこの記憶によって
共感した場合、つまりは、この感情の刺激の記憶によって、この内から発せられた
刺激が認識された場合に、自分の感情の刺激として認識され、
自分の感情であったと認識することになる。

ただし、人工知能に感情に関する刺激が内部から発せられる必要もある。
いくら外部から得られた刺激をその対象の感情であると認識し、記憶したとしても、
自身の内から発せられた感情の刺激がないと、感情であると認識することができない。

知識として外部の対象の感情の刺激として認識することができても、
自身がその刺激を内から発することが無いのであれば、
その感情の刺激について共感することができない。
これは、知識として刺激を認識、記憶することが出来ても、
感情を自分のものとして認識することができないということになる。

これは感情というのが自我の元になるものであることに関係し、
さらに、言えば、この感情には自分の価値観にも関係してくる。
感情も価値観をもとにして喜怒哀楽が生じるということである。

価値の高い対象を得ればうれしいし、失えば悲しい、か怒る。
価値観というのは感情に対する知能の反応にも影響するということである。

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相手が嬉しそうであれば、その状態は価値が高そうに見えると認識できる。
そうすれば、その状態を自身が共感すると、自身にも同じ価値の高い嬉しいという状態が
認識され、自分もあたかも嬉しいように感じるということである。

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共感自体はいたってシンプルなものである。

他の状態を自分の状態の刺激として想像、
この想像はその状態を刺激の記憶から想起することである。

この刺激が感情であった場合に、「共感」ということになる。


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