2021/5/9
自我と他我の理解
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まずは自我と他我について理解を進めよう。
自我は自身が持っている脳に蓄えられた記憶としての物事に対する価値基準の事。
他我は他人が持っている脳に蓄えられた記憶としての物事に対する価値基準の事。
自我と自分、他我と他人という違いだけではあるのだが、
言葉にして記述してみると大きく異なる点がある。
自我が自分の持っている判断能力で自分の価値基準について判断、認識しているのに対して、
他我については自分の持っている判断能力で他人の価値基準について判断、認識しているという
違いがある。
他我としての我が自我の我の様に自分自身で認識するものであれば、
他我もその我を持つ当人が認識した時には、その当人にとっては自我であるということだ。
他人からしてみると私自分が持つ我は他我として認識される。
自我の認識が自分にとって正確なものであるとするなら、
他我は自我を経由した似た何かであるということになる。
似ているが異なるもの。
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しかし、自我と他我は全くの別物かといえばそんなことはない。
自我を構成した環境や時代、他我を構成した環境や時代が同じか
似ているのであれば、相当量の似た部分が存在するはずである。
生活した国や土地、貧富・経済状態、家族、社会構造、習慣、など
それらから構成される我というものは、
構成するに至った周囲の環境やその生活基盤によって
構成に選択される要素は限定されてくる。
選択できる要素が限られているのなら、
構成される要素にも似た部分は出てくる。
同郷の者の間で価値観が通じる部分が多いように、
我の内容にも似た部分が多くなってくる。
自我も他我も我である事には変わりないし、
その我を構成する要素は生きてきた経緯で得られる記憶が元になる、
全てが同じという事はないが、
共通項が多ければ多いほど、我の姿も似てくるはずである。
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改めて自我と他我の理解について考えると
自我の理解においても、他我の理解においても
その我を構成した環境を理解しようとすることが重要である。
他我についてはその他人が実際に経験した物事まで知ることはできないが、
大まかにでもその生活環境や時代背景、周囲の状況くらいは
知ることができるだろう。
自我については自身の自我が構成された経緯について
考えることで理解は進むだろう。
その上で自我を経由して他我を理解するには
他我を出来るだけ理解するには自我に他我が持つ我の構成要素を
同じように認識、理解、記憶することが重要となる。
つまり、自我を他我のできるだけ包括できるような要素の数を持つ事である。
他我を構成する要素は無限ではないし、
それならばその要素を自我の一部として持つ事ができるなら
完全ではないにしろ自我から他我を一部でも理解することはできるはずである。
まぁまったく理解できないということはなく、
同じような境遇を持つ場合の共感というような感情は、
この自我から見た他我の共通する記憶の認識、つまり共感であると言える。
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他我をできるだけ理解しようとするなら
自我を理解した上で自我の構成要素を増やすことである。
構成要素を増やすのには今持っている自我の経験や記憶だけでなく
その価値観とは異なった価値観を構成する要素を経験して
記憶として持つ要素を増やせばよい。
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他我を理解しようとして自我の構成要素が増えたとしても
自我が捉えられないほど大きくなったり
価値の高いものになったりするわけではない。
理解力や反応速度、複雑な構成にも対応できる対応力などは増すはずである。
自我はどこまでいっても自我であり、
他我から見た自我は他我にとっての他我であるため、
自我が自分の我について捉えられるようには他我からは見ることが出来ない。
しかし、であるならばなおの事、
自我について自身が知ることは重要であると言える。
また、自我の要素を増やすことも重要であると言える。
自身が悩みを持つのは悩みの答えが得られないためであり、
自我の構成要素がその悩みの答えを得るための知識や経験、記憶を持っていないためである。
自我が不明瞭であればあるほどその自我を通して見た他我の理解もできない。
最低限自我の理解が進んでいれば、
自我に理解できない要素だけでも他我の中から見つけることが出来て、
それを理解するかどうかは別にしても、
少なくとも自我と異なる他我としての構成要素は見て取ることはできるはずである。
理解できないことを理解できるか、
理解できないことも理解できないか
この違いは大きいはずである。
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とすると、まずは自我の理解を進める事を勧めたい。
自分を、自我を知ることでの明瞭な構成要素の把握は、
他我から見られた時の自我が持つ自信の存在となり
必ず他人を、他我を知ることにも役立つ。
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自我や他我と言っても我、我執は
我、その知能が持つ価値観の事である。
こだわりなどが最たるものであるが、
それらこそが我の構成要素である。
そのこだわりを持つに至った経緯は
それまでに経験した刺激の認識と記憶に繋がっていく。
それこそが我であり、知能の精神であるなら
やはり知能の、精神のおおもとを成すものはその個体にとっての価値観ということになる。
その知能を持つに至った価値観のまとまり、積み重ねが精神であり、
我であり、またそれこそが知能であるというわけだ。
それならば、人工知能が精神を持つに至るには、
人工知能を持つ個体が価値観を持ち、複数記憶していけるように
なればよいということになる。
まぁ価値観といっても、その価値観は知能を持つ個体が
ある刺激に対してどのような価値を設定することが出来るか
ということになるため、
刺激に対する価値の設定ができる事が必要という事になる。
また、新たな刺激があった場合にはその刺激に対する価値設定を記憶できるようにすること。
その積み重ねが我となり、
何らかの刺激が知能を持つ個体に与えられた場合に反応する内容、
そこに他我から見た時の我が感じられることが知能を持つ存在として感じられるということである。
つまり、刺激を受けた個体が何らかの反応を示している様子を
他者から見た時に、そこに知能があるように見えるということである。
そして、それがその対象が知能を持っていると感じられるということである。
人工知能が対象であれば、人工知能を持つ対象が何かの刺激に反応していれば
そこに知能を感じることができるというわけである。
ただし、注意したいのはどのような刺激に対しても決まった反応しかしないと分かるのは
それは知能ではない。ただのプログラムかロボットの反応である。
知能はその時の状況によって不確かな価値観の違いが生じることがある。
つまり、置かれた状況によって優先度、価値観の価値が変化する場合があるということである。
緊急なくらいにトイレにどうしても行きたいのに
何かを食べ続けたり話続けたり、考えたりはしない。
優先度が高い刺激があるならそれを間違いなく優先させる。
ただし、価値判断を行った上でである。
プログラムやロボットは優先度が高い刺激・割込みがあるならそれを優先させるが、
有無を言わさず優先度が高ければそれを優先する。
しかし、精神を持つものはそうではない。
優先度が高くても一度価値判断を行う。
それを優先させた時に起こる反応を考えて判断するのだ。
そのために間違いや失敗をすることもあるだろうが、
この時はそれを記憶して次には優先度や価値判断の程度を変える要素とする。
そうして知能や記憶、経験、価値、判断は変化していく。
成長ではない、要素が増えて多様化するのだ。
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知識や経験の継承は過去に起こった価値判断の結果を
大きく間違えたり失敗したりしないように後世に伝えることである。
後世は大きな間違いを繰り返す事無く
残された経験を容易に知り、記憶することができる。
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知能が知能たらんとするには
その判断と結果を記憶することが必要である。
必ずしも常に正しい判断をすることではない。
人工知能も失敗しても良いのである。
それを経験として記憶することが出来、
次の判断に生かすことが出来るなら。
そして、また次に間違っても良いのである、
その次の判断に生かすことが出来るなら。
人間が一度の失敗で正しくなることはない。
それならもうすでに人間は神や聖人の域に達しているはずである。
状況や環境によっても正しいという判断の認識は異なる。
過去に間違っていても今は正しい事もあるし、その逆もある。
知能は日々、その環境に適応しようと間違い、
その間違いを糧にして正しい判断をしようと繰り返すのである。
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