2021/5/8

自我の認識

自我というのは自分という存在を自分で認識ができたときに作り出される

---------------

幼いころは自分という認識もなく
ただ今この瞬間の感覚や感情、その記憶によって
次の瞬間の行動が決められる。

この時には自我の存在は自ら確認することはできず、
ただ、その瞬間、瞬間の反応のみが自分で確認できるというだけである。

客観的に見た場合、その個体に応じた性格や感情、
特定の個性があるように見えるが、
決まった自我が存在しているというような認識はできず、
いくつか特徴的な反応が見て取れる程度の自我が見られるくらいである。

これがいつの間にか自分が判断し、その判断を確認、認識しながら
その瞬間の反応ができるようになった時には自我が存在している。

客観的に見ても、自我はより自我らしく定着し、
ある程度の個性といえるだけの性格付けができる位に
切り分けられる位の確かさを持っているのが分かるようになる。

この違いは何であろうか。

---------------
自我を持つ事は
周囲の環境の中で、自身が持つ能力や記憶、経験を用いて
自分が行う行動がある決まったパターンになっていく事である。

自分で自分を認識することで、より自分らしく行動するようになるとも
言い換えられる。

自我を持つ事は
自分らしさを持つ事、己の我と言える確かな形を持つようになる半面、
自ら自分が自分の型にはめることでもある。

自分の姿をはっきりと捉える事ができるようになる半面、
自分はこういう者であると自ら形作ろうとすることでもある。

---------------
生命としてただ生きていこうとするだけであれば、
自我は必要にはならない。

自然の中で生き抜くことだけが知識や経験として必要になるだけで、
自分の存在について認識する必要性がないからだ。
もちろん、この場合は他との関係を持つ必要がないためであり、
他と自を比較する事がないからということになる。

自が他との比較の間に生じる差の中にあるものを認識することで
自を確認することができるため、自分のみの存在の中で自分は当然そこに存在するため、
客観的に自分を認識する必要がない。

他人が居て、その行動の中に自分の行動の経験の違いの中に
他人と自分の差を見つけることが出来て、
そこに自分らしさというのものが生じ、感じることができる。

---------------
自我は他人と自分が同じ環境で活動するために有無を言わさず発生し、
それを意識せざるを得ないという状況になるとも言える。

自分も他人も同じ状況で同じように感じ、同じように行動するのであれば、
そこに自分らしさは生じない。
ああ、他人も自分も同じものだと感じるだけである。
差が生じないのだから、そこには価値も存在しない。

対象の価値は、別の対象との差に生じる。
という価値の根本的な理由があるために、
その感覚の認識や、感情の変化の差を認識した際には価値が生じる。
刺激そのものが価値であるとも言えるだろう。

他人と自分を比較した時に感じる差には
大小、正負、優劣等の価値が生じる。

その差を価値として刺激として認識することは、
とりもなおさず他人と違う差があるという自分を認識することになる。

そこには優越感や劣等感を自分の自我として感じ、
それを繰り返すことによって自我が形作られていく。

そういうことは、自分の価値を他人との比較によって
差という形で刺激として認識し、それが自我になっていくということなのだろう。

そうすると、共同体や家族、同じ団体で共通意識というか
団結力などを感じるのは、そのような観点において、
各個体が同じ感覚でもって認識し、そこに差を見いだせないために
複数がそこに存在しても差を感じなくて済み、
同じ場所に長時間いても問題が生じなくなるという有利があることになるからだろう。

そうすると、根本的に差が多い状態で違和感やストレスを感じるのは
生物として当たり前であり、共通項を持つ事で、
それらの差をあまり感じなくて済むようにして、コミュニティを作ったり
社会性を持ったりすることができるようになったと言える。

互いに自我の主張をするだけでは協力しあうことはできないが、
協力することだけを前提に活動しようとしてもそこには没個性の
強制的な平等があるだけである。

---------------
人間は社会的な生き物であるというのは、
自然界において割と非力な生物であるために、
互いの協力なしに生命の存続が上手くいかないためである。

しかし、あまりに発展した社会性は個人の没個性化を強制し、
さらに平等も強制するようになる。

これから先に問題になり、また逆に持てはやされるようになるのは、
際立った個性や、他人と違うという差をアピールする事や人物だろう。

没個性の中での自我の復権。

平等の行き着く先はまた個性となるのだろう。


TOPに戻る