2021/5/7

瞑想の方法

瞑想する方法を書き記す。

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まず周囲の環境を整えると瞑想がやりやすくなるが、
別にどのような状況でも状態でも慣れてくればできるようになる。

準備できるなら、できるだけ周囲の状況が
自分に対して刺激とならないような環境であることが好ましい。
うるさいとか、寒い、暑い、痛いというような
状況でないことが都合がよい。
つまり五感に関する刺激が少ない方がよい。
目も閉じた方が瞑想しやすい。

ただ、慣れてくればどのような状況であっても
できるようにはなる。

瞑想の心構えはいらない。
瞑想するぞと意識すると逆に瞑想がしづらくなる。

最初はできるだけリラックスした状態となり、
何も考えないようにする。

よく呼吸に集中するとか言われることもあるが、
呼吸に集中するよりも自然に任せる方がよい。
呼吸をせずにいれば自然と苦しくなるので、
人間はそのとき勝手に呼吸しようとする。
その事に集中したり意識したりするとその時点で
意識が囚われることになる。

できるだけ自然にあり、必要なら勝手に呼吸が起こる、
その位の考えでいるとよい。

意識せず勝手に呼吸が起こるようになると
体の力は抜けてきて、
少しずつ音や自分の考えた事に意識が向くようになる。

そうしたら次は自分の体や刺激の認識を
周囲の環境と同一のものであると認識するようにする。
自分が感じている刺激や考えが、
周囲の変化と同列のものであるように感じようと試みる。

この時点ではまだ周囲の刺激を認識する機能も働いているため、
意識的に心を働かせていても良い。

周囲から与えられる刺激と自分の内から生じる刺激を
同じように感じられるようになれば
その次の段階である環境の中にある自分を客観的に
自分であるが自分でないように感じられるようになる。

感覚としては周囲の中に自分も溶け込むような感覚である。

自分も自然の環境においては多くを構成する内の1つでしかない。
そういう感覚である。

自分が自分をどれだけ強く認識しようが意識しようが、
自然を構成する全体の一部でしかないこと。

自然の中においては認識の強さや意識の強さで自分の存在の大きさは変化しないということ。

もちろん喜怒哀楽、悩みや考えによっても自分の存在は変わらないということ。

そうしているとやがて自分と自分以外である他の境界を
とくに意識しなくて済むようになる。

全部を全部ありのまま受け入れるだけ。
認識も意識もしようとせず、ありのままをありのまま受け入れる。
これができればもう他にはいらない。

その時間が長くても短くても
全てを開放し、全てを受け入れることが出来た時に
瞑想は始まっていて終わっている。

「なににも心をとめず、あるがまま」

瞑想の真理はここにある。

この感覚が瞑想後に感じられたなら
瞑想はできているし、少しは気分も落ち着いているだろう。

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一歩すすんだ悟り

悟りはこの世の真理を知ろうとすることなのだが、
実際にその感覚や状態を表すことができない。

今だ世界の真理は知られていないし、
知らないことは認識できないという知能の限界に行き着く。

悟りが言い換えられるならば、
「今この世の全て」
という事になる。

宇宙まで含めたこの世の全てを人間が把握できないように
世界そのものを人間が認識することはできない。

ただ、それでも悟りを開くのであれば、
今自分の包む全てを真理として知ろうとすることが悟りであるということになる。

結局は「あるがままをあるがままに」ということになるのだが、
自分が何かを周囲に働きかけようとした時には
すでに周囲は変化し始めている。

自ら変化を起こしている周囲を認識しようとしても
あるがままを認識することができない。
自分が変化を起こしているので、
その変化は認識に先んじて行われ
変化している最中の周囲しか認識できない。

周囲も自分が周囲に働きかけを行わなくても
常に変化はしているが認識は
自分の行動の認識と周囲の変化の認識を同時に行えない。

少し前の認識は自か他かのどちらかになる。

あるがままというのは自も他も無い全部であるので、
どちらかに認識が偏った時点であるがままにはならなくなる。

小さな瞑想はその瞬間における小さな悟りであると言える。

「悟り」という大きな真理を知ろうとすることができなくても
「あるがまま」という今この瞬間の全てをここだけにある真理として
認識することが人間が行うことが出来る精一杯の悟りなのだろう。

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私も瞑想し、悟りを得ようとしたが、
把握できる世界は限られたものであった。

宇宙の端まで思いを巡らせてみても
知らない世界までは、あるがままとらえることはできなかった。

そうであるなら、今ここに自分が居る、
周囲の環境がある、そのことに意識を認識を向けると、
狭い世界であったが、そこには「今ここにある」という
世界とその真理を感じられたように思えた。

その瞬間における真理はだた1つ「そこにある」
というだけの事であったが、真理というのはそれで良いのではないかとも思った。


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