2021/4/12
認識の自由意志と因果
知能が刺激を認識する際に
どの刺激を認識しようとしているのかは
自由意志によるものか
因果によるものか考えてみる。
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生命体が各感覚器官から
様々な刺激を受けてそれを脳で刺激と判定するのだが、
その多くの刺激の中から
その瞬間にどの刺激を認識しようとしているのか、
そのきっかけとなるのは
自由意志によるものだろうか、
それともその瞬間までの因果によるものだろうか。
刺激として認識されようとする刺激は
その瞬間において最大の強さを持つ刺激であるのは間違いない。
脳内で認識しようとしている時点で
その刺激が最も強いものでなくてはならないからだ。
例え認識しようとしている刺激よりも強い刺激があったなら
その瞬間にはその強い刺激の方を認識することになる。
これは生命体としてどうにもならないことである。
知能に与えられる事になる外的要因としての周囲の環境から与えられる刺激を
因果と呼ぶのであればほとんど全ての刺激の認識は
因果が元ということになる。
その知能を構成するに至った時間と経験と記憶から
その時点で与えられる周囲の環境と生命体の体内から
生じる刺激によってその時点での知能の状態で
認識するべき刺激が定常的に決定するということになる。
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ここで、自由意志による決定であると考えるとどうなるか。
自由意志が存在する場合、
その自由意志を持つ知能とその知能を持つ生命体が
次の瞬間に認識しようとする刺激を選ぶことができるとする。
前時点での刺激の入力により脳に集められた刺激は
それぞれの刺激として脳内に残る。
そしてその際に自由意志によって認識しようとする刺激に対して
想起して、励起する力が加わることになる。
ある瞬間に弱い状態であった刺激であっても
自由意志によってその刺激を選択できるのであれば
刺激の強さに関わらず選択した刺激を励起することで認識することができるからだ。
では自由意志とは何かという話になるが、
知能においては意思はその知能が持つ特性である所の
記憶や神経ネットワークの繋がり方、関連の数などの
脳を構成している状態が、ある瞬間において刺激を認識する直前に
無意識に、意識せずに選択や決定を行う機能の事であるが、
この知能が持つ特性を意思とするなら、
無意識に行っている選択や決定が「意思」ということになる。
意識的に次の認識しようとする刺激を決定した場合、
その意識的に行った決定はその意思の働きの直前に既に決定しているためである。
要するに次の認識するべき刺激を決めようとしたその瞬間より前に
その次の瞬間に認識しようとする刺激の種類を特定して認識する準備を整えておく
必要があるからだ。
そうでないと刺激を認識するシステムとして
その瞬間に最も強い刺激を知覚する事が認識であるときに
その瞬間に弱い刺激である場合も考えられるためだ。
その瞬間に弱い刺激であった場合でも意識的に刺激が認識できるのは、
入力した刺激をその瞬間に最も強い刺激として励起していることになる。
刺激を入力してから認識するための想起するために励起する必要がある。
だからもし意思が刺激の認識に働いていると考えると、
その刺激の認識のための準備としてその刺激の入力器官のウォーミングアップのような
励起のような働きが起こっていて、それを意思と呼んでいることになる。
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例えばキッチンで聞こえる冷蔵庫のコンプレッサーの音に注意を向けたとする。
この瞬間、コンプレッサーは稼働していなくて音が聞こえなかったとしても、
意思でこの音を聞こうとしたときにそちらの方向の音が普段は聞こえないような小さな音であっても
聞こえるようになる。
そして、コンプレッサーが実際に稼働した際には、
他の刺激よりも優先してこのコンプレッサー音が聞こえることになる。
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ただし、これ以上の前の瞬間や次の瞬間より先の時点での自由意志の働きについては
意味がない。
これ以上前の瞬間は既に自由意志の決定が決まった後であるし、
次の瞬間より先の時点の自由意志の決定は、次の瞬間の自由意志の決定がまだ
維持された状態であるため。
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次の瞬間に認識する刺激を今の瞬間認識していない自身の知能は、
次の瞬間に認識しようとしている刺激を決定しているかが分からない自由意志は
不確定性原理と同じ振る舞いをすることになる。
しかし、
確かに次の瞬間に認識しようとしている刺激は決まるし、
実際に知能自身もその刺激を認識している。
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では自由意志と因果、結論として認識する際に働いているのかどうか。
現時点では因果が優勢と考えるのが自然である。
周囲の環境から受ける刺激にしても体内から発生する刺激にしても
刺激の認識は一度脳内で刺激として知覚された後に
刺激として認識されるために、
どれだけの強度を持つ刺激として認識されるかは
自由意志の介在する余裕が無い。
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