2021/4/11

意識と認識とは

意識は連続した刺激の認識と説明してきたが
では認識とは何か?
認識している存在は何か考えてみる。

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意識は何かについて考えている内に
その意識が連続した刺激の認識というモノであった場合に
その刺激を刺激として認識している存在について考えてみると
その存在についてはまだ正確な姿はとらえていないことに気づいた。

刺激を認識しているのは自分なのであるが、
その刺激を特定の刺激として認識しているのは何なのか。
脳が刺激を特定の刺激として認識していたなら
では想起した時に再生される刺激を認識しているのも脳であるのか。

意識の中で刺激を認識している存在は何かについて考えるようになった。

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意識は刺激の認識が点で表され
その連続した姿が意識として線になって現れた姿で現される。
限りなく短い時間では意識は認識した刺激の点で
表されるという事になる。

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刺激の始まり

刺激の始まりは単純なものであったと考えられる。
例えば、明かるさを感じるだけであったり、
渇きなど、生命に最低限必要となるような
周囲の環境の情報を得るための器官であったはず。

現在でも植物には明るさを感じる器官があるというし、
その刺激を感じる器官は知的ではないにしろ、
周囲の環境から得られる情報を刺激として
生命体が認識している刺激という事になる。

(光屈性・屈光性とも:光が当たる逆方向の茎にオーキシンという植物ホルモンが
集まりその側の成長が促進されて光の方へ成長が向く事)

初期の刺激を認識できる器官を持つ生物の場合、
刺激を受ける器官とその受けた刺激に対して反応する器官が
セットで必要になるが、
初期のころは、この刺激を受けるというだけの器官で
成り立っていたはずである。

後に複数の刺激の種類を受け取る器官ができて
それらを汎用的に刺激の入力ができるようになったのが神経となる。

自然界はシンプルなシステムを好むので
刺激の入力からその刺激に対する反応を起こすためのシステムとして
刺激の受容体とその刺激の伝達方法が作られる。

後にその刺激に対する反応をしたり、
その刺激を記憶したりする器官が脳となる。

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最終的に認識とはなにか

認識とは刺激を認識することであるが、
その刺激の認識は
刺激を受容し、生命体が受容できる刺激の中で
その瞬間に一番強い刺激を刺激として認識している気がする
という感覚の事である。

認識という言葉で表しているが、
実際には確固たるシステムで刺激の認識を行っているわけではなく
単にその瞬間、瞬間で一番強い刺激が知覚され続けている事、
それが認識だということだ。

意識的に認識しているようで
実際はその生命体が持つ刺激認識のパターンにそって
刺激を選んで知覚しているだけ。

その刺激を脳が刺激として知覚し続けている間に、
その刺激を記憶の中で再生し続けている間に、
その刺激は認識されているということになる。

意識があるという状態は刺激の連続した認識で間違いないが、
その瞬間にあった刺激の認識における「認識する」という行為は
その瞬間にあった刺激を記憶の中から一定時間の間、
想起し続け、刺激を知覚し続ける事の事を「認識する」という事になる。

実際に今、自分が認識している刺激は、
その瞬間の前の瞬間に記憶から刺激を想起した結果の
刺激のパターンを知覚する事。

感覚器官に入力された刺激は神経を通り
脳幹、小脳、大脳を経て特定の刺激であると判断された後、
その刺激を想起によって一定時間再生し続けることで
脳は刺激という形で認識、意識することができる。

刺激として認識されなかった刺激も消えていくわけではなく
次の新しい強い刺激を受けるまで保持される。
この場合の保持はシナプスの励起の話になり、
刺激が入力されることで励起されたシナプスが一定時間その
励起の状態が維持されるということ。

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これを踏まえて

意識とは連続した刺激の認識

認識とは認識していると感じている時間の間、刺激を想起している事

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実際に自分が感じていると思っている刺激は
一度、脳内に到達した刺激が、
その脳内で一定期間想起・再生している間の時間に
刺激を知覚していると感じているシナプスの励起の事。

だから、刺激を受けてその刺激をそのまま脳が認識しているというわけではなく、
一度脳内でどのような刺激か判断され
まぁこの刺激の判断は刺激が到達した脳の野によるが、
そこで刺激の中身が判定されることだが、
そして、その刺激が脳内に到達した後に
その刺激によって励起された刺激の情報が
一定時間励起された状態が保持されることで
脳は、この刺激を認識し、意識することで
この刺激を感じていると意識することができる。

そういうことになる。

だから、何かシステムとしての意識や認識というものは
結果として「存在しない」という事が答えとなる。

抽象化されたシステムとして認識していると感じたり、
意識があると感じる事はできるが、
認識や意識が何か特別に存在しているわけではないという事になる。

それと関連して
そこの上位の抽象化された存在として精神があるが、
この精神はその個体が持つ刺激の認識パターンや
刺激の記憶されたパターンとしての結果として、
個性があるように見えて、精神があるように見えているだけであり、
精神という確固たるものがあるわけではなく、
これが知能であるというような知能があるわけではなく、
そしてこれが精神であるというような精神が宿るわけではないということになる。

生命体の姿も能力も異なり、
環境の違いもあり、
時間経過による刺激の入力も異なれば、
その生命体が持つ刺激受容のパターンは異なり、
刺激の認識パターンも異なり、
その生命体の活動のパターンも異なる。
それが独自の知能に見え、精神に見えているだけということになる。

では、知能は、精神は存在しないのか?
ということになるが、
抽象的に見れば知能は存在する。
生命体の各個が持つ精神らしきものも存在する。

それは各生命体が持つ独自の異なるパターンの意識や認識があるためで
それが唯一のものであるためである。

皆が同じ知能であればそれは単に共通化された知能、本能ということになる。
その生命体に知性は感じられても、個性や精神は感じられない。

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刺激の認識や想起は
刺激の受容体に紐づいた脳内のシナプス神経ネットワークの
励起が一定時間の間、保持される事の事を言う。

知能を持つ生命体が活動中にある刺激を入力した場合、
それの刺激に対するシナプスの励起は
その生命体が持つより強く関連したシナプスの神経ネットワークに
伝達され、それらの関連した神経ネットワークにも励起が伝えられる。
その組み合わせによって次の瞬間に認識されるべき刺激の内容が決まり、
その刺激を認識することでまた次の瞬間の認識されるべき刺激が
決まっていく。
この連続した刺激の認識が意識ということになり、
これこそが知能であり、精神という形を持つようになる。

瞬間瞬間において、周囲の環境から受ける刺激と、
既に持っている神経ネットワークの刺激の関連情報は作用しあうため、
両方が決まっていれば、
厳密にいえば次の瞬間に認識するはずの刺激は予測できる。

実際は周囲の環境の影響の種類が多すぎるため
予測はほぼ不可能である。

しかし、周囲からの刺激がごく少数であれば、
知能が持つ情報ネットワークのシナプスのつながりは限定的であるので
ある程度の予測はできる。

まぁ特定の人間の行動パターンが予測できるようなものである。

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知能や精神が知能たらん、精神たらんとするためには
それを持つ個体が周囲の環境へアプローチする必要がある。

周囲の環境と知能や精神を隔てるものが体であり、
その仲介役が刺激である。
そして、周囲の環境と知能や精神が作用しあうために
知能や精神を保有する体が周囲の環境に作用しなくてはならない。

環境と体の差の間に刺激が生じ、
その刺激によって知能や精神は変化し、
体が変化し、環境と作用しあう。

人工知能が精神を持つためには
周囲の環境から刺激を受けなくてはならない。
そして人工知能を持つ個体が周囲へ作用できる環境でなければならない。

これはVRでも構わない。
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思考するということの認識

意識や認識自体が抽象的な刺激の知覚ということであったが、
思考するということも同様であると考えられる。

思考も神経ネットワークが持つ刺激記憶のパターンを
想起した結果として思考していると認識していることが
「思考」ということになる。

思考自体は思考される内容の認識と
思考された後に得られるであろう解答の漠然とした認識で始まり、
最終的に解答として認識するのにもっともらしい刺激パターンが想起された時に
思考が完結するわけであるが、
これらの思考の初期段階に認識される刺激のセットと
解答として認識される刺激のセットが両方認識されると
「ああ思考したな」と思考の完了を認識することになる。
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思考のパターン

思考する際に最低限思考する目的となる問題の認識が正確にできた場合、
その後の解答となる思考の結果はその知能が持つ刺激セットの記憶の量によって
大きく異なる。

多くの記憶を持っている知能はやはり解答に近づきやすく、
記憶が少なかったり、偏っている場合は求める解答に到達するのは難しい。

得られた解答が正しいか正しくないかは結果論になるが、
その解答に向かうまでに想起される刺激の記憶はやはり多い方が
より解答に近づきやすい。

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