2021/3/21

知能の始まり

知能が始まるに至った経緯について考える。

知能の始まりは音でないかと考える。
音は声の始まりであり、他人とコミュニケーションを取るために必要であり、
他人の認識ができれば、自分の認識もできるようになる。

自然界で刺激に対して本能で反応する生物は多いが、
知能をもって思考によって刺激に対することができる生物は少ない。

空気の振動でも、水中の振動でも、音をやり取りする生物は
生物の機能としての脳を持っている。
音をやり取りする生物でも昆虫や魚、両生類などの生物に知性があるかと聞かれれば「ない」
という事になるが、刺激として受けた音を自分ではない他から受けた刺激として
捉えることができる生物には少なからず知性を持っているように思われる。

さらに発展させると、音の聴覚、匂いの嗅覚、見た目の視覚、触れた触覚においては
この知性に関係する自己と他の区別に利用される。

自己と他の区別がつかない生物には知性を手に入れることはできない。

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そうすると、知能の始まりは、自己と他の区別から始まることになるのではないかと考えた。

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自が先か他が先か

人間が生まれてから自分を認識するのが先か、他人を認識するのが先か考えると、
他人が先であろうと考えた。

自分の感覚や欲求については、他人の認識よりも先であるが、
その感覚や欲求が自分の感覚であるという認識は最初にはない。
自発的に本能的に感じる刺激であり、それが自分が受けた刺激であるとまでは認識していない。
要するに刺激を受けた事がスタート地点であり、その反応をしているだけである。
これは知能の有無に関係なく他の生物についても同じような反応をする。

ここから先の知能のある生物について他の知能の無い生物との違いは
刺激のもう少し前の時間についての認識ができるかどうかに関わってくる。

刺激について認識をするには感覚器官に刺激を受けて
神経を通り、脳で認識、そして意識するのだが、
知能を持つ生物の少し異なる点は、
この刺激を受けたのが自分であるという認識が追加されるという点にある。

つまり、自分という認識をもって自分が受けた刺激を認識しているという事である。

言い換えると、周囲の環境の中にあふれている様々な他の中にある刺激を、
自分という存在がその刺激を受けて認識したということである。

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最初に書いた、他人の認識が先であるというのと矛盾しそうであるが、
ここは少し自分と他人の認識の始まりに時間差があり、
自分を認識できるから他人を認識できるのではなく、
周囲にいる多くの他の中に自分という存在も含まれている事を認識できることである。
客観的に見れば、自分も環境の中にある存在の1つに過ぎないが、
その存在を他から切り離し、自分というくくりでまとめたものを
後から自分として認識しているということである。

要するに、自分も最初は全ての他の1つに過ぎないが、
やがてその全ての他の中から、自分というものを切り分けて認識したものが自分であるということ。

それができる事が他を認識し、自分を認識するということになる。

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他を認識し、自分を認識できたなら、
そこに知能の始まりが見て取れるようになるはずである。

始まりは自分の欲求からの始まりになるだろうが、
その自分の欲求充足の為の行動は他と影響しあうことになる。

その繰り返しの中で、他と自の差を経験し、記憶し、積み重ねることで
やがて効率的な、効果的な行動に、価値のある行動につながっていく。

価値を認識するようになれば、さらに複雑な価値観により
知能はさらに複雑で高次化されたものになっていく。

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少し話はそれるが以前書いた悟りは
この自分という認識を、最初にあった全ての他の中に戻してやることと同義になるだろう。

自分の完全なる開放は全ての他と等しくなるという事に他ならない。
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