2021/3/14
価値の根幹
知能が選択する際に用いる価値の設定において
この価値を決めるための根幹に何があるのか考えてみる
知能が何かを選択する際には価値の大きさを比較する
本来の価値の比較は単純なものなのだが、
現在の価値の設定は知能が様々なものに対して
価値を設定することができるために複雑化し、
価値自体が複数の要素の価値の複合体となっているために
複雑化し、その根底に何があるのかわかりづらくなっている。
単純な価値の比較であるのなら
単純な知能における価値の設定する要素について考えればよい。
最低限の知能であるなら
どのような要素の価値から成り立つか考える。
欲求などの本能的に必要とする要素の価値は、
おそらく知能に関係なく生命を構成する上で必要となるため
後天的に人間等の知能が価値を設定するものではない。
知能があるなしに関わらず、本能的な欲求には価値が設定される。
これらの価値が知能において比較される価値の対象としての要素にも含まれるが、
これらが価値の根幹を構成するものであるかはもう少し考える必要がある。
本能的な欲求に対する価値が存在しなかった場合を考えてみる。
この場合、個体として生命として生命を維持、存続させる心配がない状態と考えられる。
このような場合に、知能を持っていたとして、
何に価値を設定するのか。
自分を存続させるために必要な事が無ければ、
欲から解放された状態となる。
自分だけであればもう既に何も望む必要がなくなる。
この時、生命として何かに価値を設定する必要性すらなくなる。
ただ生きている、時間を過ごしているだけの状態。
時間の限りもなく、死もなく、ただし、生きようとする必要もない。
まぁこの状態では既に知能は考える必要もなくなり
ただ観測者として観測するだけの存在になるだろうか。
要するに自己の存在そのものが知能として認識する対象として扱われなくなる。
これでは自己も知能も、そもそも価値も意味を失う。
であれば、最低限、自己の生命体としての維持の労力の必要はあるということになる。
自己を必要とするのであれば、そこには本能があるわけであるし、欲求も生じる。
であれば、さらに自己と周囲の環境を必要とするし、
すると、自己と周囲の環境との互いの影響が生じることになる。
自己と周囲に影響しあう必要がないという状態では
知能は知能として価値を比較する事も、比較の必要もなくなるため
この状態では価値そのものが意味をなくしてしまう。
であれば、知能が価値に何らかの意味を持たせ、価値として何かを設定するなら
自己と周囲の環境の間に差異を必要とする。
「価値は状態の差に生じる。」
ということになるだろう。
自己の状態の差、自己と環境の状態の差、環境の状態の差、
自己の知能を主とするなら、この3つの状態の差が考えられる。
自己の状態の差は、
自己の知能を持つ生命体としての状態の変化、
過去、現在、未来のいずれか2つの状態の差に価値が設定される。
例えば過去の自己の体力と未来の自己の体力の差、
要素は同じ要素を持つものでないと意味がないのでここでは体力としておく。
若い成長中の状態であれば、体力が増していく状態の差に価値が設定されるかもしれない。
老いた状態であれば、現在と未来の体力に不安として価値が設定されるかもしれない。
この時の知能が小さな価値か、大きな価値か、
プラスの価値か、マイナスの価値か、どのような価値を設定するかは個体の知能によるが、
状態の差を認識することでそこに価値が生じる。
自己と環境の状態の差は、
自己とその自己の個体が影響する他の状態、
他の状態は、生命として存在する自己の存在が影響する対象、
他人であったり、コミュニティであったり、社会であったり、
自己が他と触れ合うことで生じる自己と他の間の差の状態のこと。
ここでも時間の要素はあり、過去、現在、未来の自己と他の状態の差となる。
環境の状態の差は、
自己が認識している周囲の環境同士の差の事。
気候の変動や、経済の変化、格差、差別、年齢差など
自己が直接影響するものではないが、自己が存在する環境の状態が変化すること。
これも、時間変化の要素はあり、過去、現在、未来のいずれかの状態の差となる。
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自己の知能が、自己や環境の状態の差に価値を認識することは分かったが、
ではさて、その価値の本来持つ要素としての値は何になるか。
知能が、その知能のもつ知識により、その対象となる状態の差に
価値を設定するのだが、その時の価値は、知能によって異なる。
自分と他人の知能が同じ状態の差に同じ価値を設定することはない。
状態の差は絶対値として同じはずだが、その状態の差を認識する知能によって
価値の設定も異なる。
要するに各個人が持つ価値観によってその価値に差が生じることになる。
自分がAという状態の差に5倍の価値を設定する時に
他人がAという状態の差に2倍の価値を設定することもある。
知能が与える価値=知能が持つ価値観×状態の差
自己の知能Aと他人の知能Bにおいて
知能Aが与える価値=知能Aが持つ価値観×状態の差
知能Bが与える価値=知能Bが持つ価値観×状態の差
知能Aが与える価値と知能Bが与える価値には
恐らく差異が生じる。
例えば、空が晴れるという状態の変化について
知能Aと知能Bは異なる価値を与えることだろう。
しかし、状態の差はあくまで同じ状態の変化である。
この状態の差こそが、価値の本来持つ要素であると考えれられる。
とはいえ、この状態の差を認識するのは、
この状態の差を認識することのできる知能であるため、
共通の知能でない限り、絶対的な価値としての状態の差として捉えることができない。
あくまで主観なのである。
でも、この場合に、全ての価値が主観で設定された価値であると
不都合が多い。
例えば食べ物Aに自分は大きな価値を設定しているのに、
それを欲しいという他人はそれほどの価値はないと設定している。
それでは納得がいかない自分は他人に食べ物Aを分け与えることはできない。
逆に自分は食べ物Bにそれほどの価値がないと設定しているが、
それを持っている他人は大きな価値があると設定している。
この場合食べ物Aと食べ物Bを交換することはできない。
これは別の人間同士でもありえるし、食べ物でない違う物や状態でもありえる。
で、ここで人間が他の人間と関わり合いながら生きていかなくてはならないほど
自然界の生命としては弱い個体であるという問題が関係してくる。
そうするとどうするかというと、
お互いに交渉して価値観をある程度共通したものにしようとする。
知能の機能としてというよりも、
必要に迫られたと考えるべきだろう。
相手を殴って勝った方が決めてもいいのだが、
というより、歴史ではそれで決めた事も多いのだが、
今、現在にいる人間の間には、過去に決められた価値観の積み重ねが
土地土地で決められ、それが引き継がれて価値の大本を成している。
人間の知能がそれぞれ持つ
「常識」という価値観である。
世界の各地で常識は異なり、一定の範囲に住む人間それぞれに若干の差こそあれ
同じような価値観を持つ。
その価値観によってある程度の価値の共通化は計られ、
その土地で生活する上で不都合が少なるなるような価値観の常識が
受け継がれているはずである。
で、価値の要素の話に戻るが、
価値は知能が主観で認識する状態の差に自己の知能が持つ価値観を掛け合わせたもの。
それを知能が価値判断に用いている。
価値の根本はそういうことになる。
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状態の変化は
時間変化だけでなく、所有の変化(手に入れる、失う)や、
価値・価値観の変化さえも状態の変化に含まれる。
とにかく要素として同じものであり、そこに差が生じたなら
状態の変化として知能が認識することができ、
知能が認識できる状態の変化・差であるなら、
これを状態の変化として認識できる。
そうすれば、状態の変化には価値が設定できるということになる。
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自分しか持たない価値観というものもある。
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皆に認められない芸術
芸術は常識で作られた状態変化の価値として最たるもの。
だが、その価値としての要素には、
複数の知能が同じように価値のあるものとして
認識できる対象の状態の変化が存在する。
価値の要素を分解してみると、
芸術にも複数の状態の変化がある価値が含まれているはずである。
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余暇ありきで作られた価値
生命の存続に必要ない価値は本来、
自然界には無かった価値であると考えられるが、
人間が生命の存続以外に価値を感じたことで
価値が設定されたものである。
しかし、この価値もまったく自然界に無かったという
わけではなく、自然界の状態の変化に対して
知能が共感する価値があったため、
その要素を組み込んで新たな価値として決めた価値である。
このため、価値を細かく分解していくと
必ず自然界の状態の変化や、人間の自己の状態変化、
自己と環境の状態の変化のいずれかの要素を複数含む。
その組み合わせによって新たな価値が作り出されている。
生命の存続としては必要なかったが、
生命の存続に余裕が生まれたために
価値の組み合わせが生じて新たな価値が生じた。
特に人間の感情の変化はこれらの価値の状態の変化の要素に
含まれている事が多い。
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価値の組み合わせ
現在の価値は複数の価値が組み合わされているものが多い
知能がその複雑な組み合わせに対応できるようになったとも言える。
そりゃ脳が発達したわけだ。
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