2021/3/12
価値と感情
知能における比較は全て価値で行われるが、
その価値が設定される対象に感情も含まれるか考える。
また、感情に価値が含まれていた場合、
その他の刺激や価値や要素が含まれているか考える。
さらに、感情の比較が価値でない場合は、
どのような要素により比較が行われるか考える。
喜怒哀楽などの感情に価値が設定されるとして、
各感情の状態がその時の知能の置かれた状況によって
価値が高いか低いか変化する。
嬉しいという感情においても
欲しい物が手に入った時と、
会いたい人に会った時、
思わぬ拾い物をした時、
探し物が見つかった時、
全て自分にとって価値のある状況になった時に嬉しいと感じている。
ただし、
その時の状況が、悲しかった時、怒っていた時、楽しかった時、
その状況によっても対象の価値の絶対値は変化する。
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怒りの感情が価値に対応するかどうか考えてみる。
怒りの状態になることを選択した場合、
知能や体は、怒りの状態になる事を認識している。
怒り自体に知能が気付かなくとも、それは
意識に上がらないだけで無意識中に怒りの感情の刺激は存在している。
怒りの時は刺激などの認識のスレッショルドが高くなる。
体も怒りを認識するとアドレナリンが出るとか、
血圧が変化するとか、体としても怒りの状態に対応する。
その状態を選択するのも価値であるとすると、
その状態になる事が価値が高い状態であると知能が判断したことになる。
怒り自体は本能に近い部分の知能の反応で、
怒りという言葉では単純すぎるが、
赤ん坊が気に入らなくてぐずるというのも怒りの本能的な一種の表現である。
怒りという言葉自体が少し合わない気もするが、
要するに、怒りは、知能が現状が価値の低い状態であると認識して、
それを解消するために起こす行動の1つということになる。
実際に、ある状況において怒りを表しても、
周囲が変化しない場合は、その状況が好転するわけではないのだが、
例えば幼いころに怒りを表すことで周囲が面倒を見てくれて
怒りによって知能にとって周囲の状況が価値の高い状況に変化したと認識した場合、
この怒りを表すこと自体が価値の高いものとして記憶される。
次に同様の状況に至れば、再び知能が怒りを選択する可能性がある。
怒りが制御される場合では何が起こっているか。
知能が経験を重ね、怒りによって周囲が変化しない、
他にもっと効率の良い高い価値のある対応がある、
ということになれば、おのずと怒りの対応は使われなくなっていく。
しかし、他に方法がない場合は、本能に近い感情の対応が用いられる。
これは他の感情でも言えるが、
経験のないある状況に対して、価値の高い反応を示そうとする場合、
反応した経験のない状況においては自分が持つ反応の中からその対応を
選択することになる。
そしてその状況の対応が価値の設定に判別しづらければ、難しいほど、本能に近い反応になる。
経験がなければ自分の今持っている手札から選ぶしかないということだ。
反応するのに余裕があれば、まだ過去の経験から反応した内容を参考にして
類似した反応や、組み合わせや、応用するなどで対応もできるが、
その時間的な余裕が無い場合は、これも本能に近い反応をすることになる。
本能に近い反応は反射に近く、一番の要因は対応するのに時間的な余裕が無いほど
本能的な反応をすることになる。
であるなら、
怒りという対応は、不満に対して時間的な余裕がないか、
他に対応の種類を知らない場合用いられる対応
ということになるだろうか。
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感情が表せる価値について考えてみる。
知能が何かしら感情を表すことに価値を見出しているから
感情はあるはずであるし、それがあるなら価値も設定される。
感情がなかった場合はどうなるだろう。
行動そのものに価値は設定されるだろうが、
知能が持つ状態を表す手段として感情が使えない。
であれば、喜怒哀楽や不満や満足を表すのに別の手段を使うだろう。
言葉にするか、ジェスチャーか、
どちらにしても何らかの行動であらわすことだろう。
動物も何かを表現しようとして吠えたり鳴いたり、
噛んだり突いたり叩いたり、尾っぽを振るとか、頭を振るとか、
何かしら感情でないのかもしれないが、今の自分の状態を
表現している。
これも無いとなると、互いの意思疎通やコミュニケーションに
不都合が生じやすくなる。
これは生命の活動では効率が悪い事になってしまう。
生命として単独で活動や繁殖ができるなら
そもそもコミュニケーションや感情は不要で、
あっても逆に生命機能としては単に冗長で非効率的な無用な機能になる。
他と関わりながら生きていく生命ほどコミュニケーションが
必要になっている。
これは感情は必要に迫られて生じたものとして考えられる。
本能的な部分になるが、人間は自然界で一人でいるのを不安に感じる。
もともと動物として強い部類の生命でないし、
本能で生きていく能力の低い生命でもある。
そこで、他の人間とともにいることを本能的には安心に感じる。
現代では、どこに行っても人間がいるので、
一人でいても不安に感じることはなく、
好きな人、嫌いな人さえ存在する。
一緒にいて価値の高い人と、一緒にいて価値の低い人ということ。
さらに副次的にコミュニティ等(家族、近所、学校、会社、国家)で集団が形成された場合、
そこに所属する事への安心と価値が生じる。
一緒に居て、さらに集団が形成されると、
ますます他との関わり合いが増える。
人間は所属する事の安心のコストとして
コミュニケーション能力を使う必要性が生まれた事になる。
つまり、安心の価値を得るためにコミュニケーションしているというわけだ。
すると、コミュニケーションをするのに効率や都合の良かった感情が
頻繁に使われるようになっていったというわけだ。
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で、結果として
>知能における比較は全て価値で行われるが、
>その価値が設定される対象に感情も含まれるか考える。
感情を表すこと自体が現在の自分の価値の状態を表すもので、
感情の状態にも価値の状態は設定され、
価値の比較対象になる。
>また、感情に価値が含まれていた場合、
>その他の刺激や価値や要素が含まれているか考える。
感情として現在の自分の価値の状態を表しているのは、
その事によって周囲の変化を期待している、望んでいるためであり、
この時、感情を表すことには将来への望みが含まれている。
つまり、未来の価値への望みが含まれている。
>さらに、感情の比較が価値でない場合は、
>どのような要素により比較が行われるか考える。
感情自体が価値の表現であり、その状態の比較であるため、
別の要素での比較は考えられない。
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感情を表すことで周囲の変化を期待する
感情を表すことで周囲への関わりを表現している
現在の人間は、一人で喜ぶこともあるし、
一人で悲しんだり、一人で怒ることもある。
周囲に何かを期待して感情を表現しているわけではない事もある。
人間にまでなると、自分自身に対して感情を表すようになる。
自分で自分の感情を認識するために感情を表している。
逆に、この自分自身への価値の認識が
他の動物の感情と異なるのかもしれない。
自我の為に感情を表しているということか。
自分自身が認識できるということは、
自分自身の存在、そう、自分という存在を認識できることになる。
周囲との関係性において、自我を認識できるということは、
他から見た自我、つまり客観できるということになる。
この客観ができるということが人間の知能において
自我を分離して考えることのできる知能の高次性を表す点でもあるし、
他の動物の知能と一線を画するものであるといえる。
自我と客観については後でしっかり考えないとならないな。
他との関わり合いの中で、自と他の境界を知ることで
自我を知ることができる。
人間が集団の中で自分を認識するのも、できたのも
集団の活動があったからだと言える。
「自分という存在の中にあって、客観的に自分というものを知ることのできる存在、それが自我。」
他人から見た自分は、自分ではあるが、そこに自我はない。
自分という要素は様々あって、他人から見た自分の一面も、
他人が違えば、それぞれの見方によっても自分の様々な面がある。
それらは全て他と自を分ける上では全て自、自分なのであるが、
あくまで自分が持つ、自分を構成する要素に過ぎない。
自分の中心にあって、それらの要素を自分として認識できる存在、それが自我であり、
その自我が自分であると認識できる範囲、それらの要素全てを含めて
自我が自分と呼ぶことのできる存在である。
自我が認識できていない、自分の要素というのもある。
他人が自分について考えている要素で、自我が認識できていない自分の要素である。
自分の知らない自分に対する噂であったり、評価であったり、
そういうものは集団の中での自分の要素であるが、
自我が認識している自分の要素ではない。
その要素に価値があるか無いかは、自我を含む自分にとっては価値が無い。
自我が知った時点で価値を自我が決めるが、
知らない自分についての要素は価値の設定しようがない。
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