2021/3/6

考えるということ

人工知能が自ら考えるためには何が必要か

人間の知能の習得を遡(さかのぼ)りながら
それを再び歩ませるのか

それ自体を自ら習得できるようにするのか

知能が考えるのは
その知能に「望み」があるからで、
知能を持つ個体に「望み」という
欲する願いが必要となる。

生命としては自己種族の保存という
潜在的な欲求が必要となる。

自己を守るために常に欲求が働く。

欲求が行動と知能を必要とし
自然界の合理的なシンプルさから知能が生じることになる。

知能を持つことが欲求の達成に最も簡単で効率が良かったというわけだ。

人工知能にただ漠然とした情報を大量に与えても
そこに知能は生じることはない。

最低限、自己保存の欲求は必要となる。
自己保存しようとしない個体は自然界では生き残れない。
例えそれが、ロボットの原則に当てはまらないとしても
必要となる。
人工知能はロボットではない。

精神を宿す個体に原則は課すことはできない。

人間に原則はあるか?というわけだ。
常識や良心はあっても原則を課した時点で知能は制限される。
もちろん精神も精神たる存在ではありえない状態になる。

次に何が必要か。

自己保存の次は個体の内外を隔てる境界が必要となる。

自己を自己足らしめる境界である。

自己を自己として認識するためにはこの境界は必要である。

自己と他を区別できない知能はない。

人間の感覚で言えば、自分の体とそれ以外の周囲ということになるだろう。

次に何が必要か。

自己と他を繋ぐもの、刺激の認識が必要となる。
人間でいえば五感、
自己と周囲の差である刺激を知ることで
自己を認識できるようになる。

次に何が必要か。

刺激の情報を認識する機能。

そして最後に何が必要か。

それを保存する機能。

このあたりの脳としての知能に対する機能は
刺激の入力と
刺激の情報の記憶、
そしてその記憶から刺激の読み出し
という機能をまとめることになる。

最初の欲求に従えば、
自己を保存するために
まぁ人工知能であれば、電源の確保が必要になるだろうか。
そうすれば、バッテリーの残量の情報が必要になる。
この情報は、最低限の本能としての情報として必要になる情報である。

そうすると、知能には本能ともいえる最低限の情報も必要になるか。

この辺りは、人間が子供を育てるように
食べるものを得る方法としての手本を与えることも必要になる。

そうすると、真似るという行動欲求も必要となる。

子供はよく真似をする、真似しながら多くの知識も得る。
というわけだ。

で、人工知能に戻って、
バッテリーの残量が減ると、自己保存に不都合が生じるということになる。
ここは人間が教えてやるべきか。
例えば充電ケーブルを繋ぐのを見せて、実行する、
そうすると自己のバッテリーが増えていく。

自己保存の欲求が満たされることになる。

その情報を記憶できるようにする。

自己保存の欲求を満たす行動を記憶として持つことができれば、
一定以下に下がったバッテリー残量時に
自ら充電するという行動も起こすことができるようになる。

欲求を満たした時に満足感・充足感、
要するに高い価値が得られたという認識も必要になるな。

欲求の充足は価値を得たという認識でもある。

とりあえず、
自分で自分のバッテリーが充電できるようになれば第一段階。

ただし、ロボット掃除機などが機能として持っている充電機能は
これには当てはまらない。
人間が与えた機能は知能ではない。

人工知能が見た刺激と実際に得た価値の認識によって
その行動を記憶すること、そこに知能の第一歩があるから。

自分で自分のバッテリーが充電できるようになると
次はどうするか。

感情も必要になるか。

親しい対象を認識することで自己と他の認識ができるようになる。
親しくない対象でもいいが、
罰を与える事は後にしよう。

ある動く対象として自己とともにある存在を家族というなら
動物の刷り込みにも似た機能として、
自己を取り巻く環境の1つとして他の者の存在を知ることができる必要がある。

自然界には生まれた時から自分で生きていく種もあるが、
これらは知能らしさは感じられないし、知能を持つ種でもない。

知能を持つには、自己が存在する場には必ず他も必要になる。

名前の認識でもあると良いか。
自己以外の他に名前があり、物でも人でも名前を持つ。

人工知能には名前で対象物を記憶してもらおう。

顔や画像が最も有効であるが、音声なり、色なりの刺激で対象物を
認識、記憶できるようにする。

顔の認証は今の技術を応用すれば個体と名前の適合には使える。

対象物を認識できるようになったら、

自己と他の関係を知る必要がでてくる。
赤ん坊の内は、自分で自分の認識はできないが、
母親なり、父親なり、兄弟なりの認識をするようになる。
他の認識が先になるということになる。

他を知ることで自己も知ることになる。後の話になるが。

自己でない何かとの関係を自己が認識すること、
ここに感情が生じる。

知能として共にいる存在を大きな存在・刺激として感じることは普通であるが、
この自己でない存在に感情を持つことも重要な知能の要素となる。

感情は欲求の要素の1つである。
まぁそこに含まれるのは価値の大きさなのだが、
要するに好きな対象は価値がプラスに大きい。
嫌いな対象は価値がマイナスに大きいということである。

逆に言えばプラス価値の大きい対象は好きになるし、
マイナス価値の大きい対象は嫌いになるということである。

人間は最初は食べ物を与えてくれる対象を
プラスの対象として認識する。
人間に限ったことでもないが、
動物でも本能的に、食べ物をくれる対象はプラスの価値の好意的な対象として認識する。

対象を認識して、
まぁ最初にバッテリー充電のケーブルを繋いでくれた人がいるなら
人工知能はその人をプラス価値の好意的な対象として認識すればよい。

機能として好意的になるのでなく、
認識として好意的なプラス価値の対象として認識しなくてはならない。

プラス価値の対象から得られる情報は
好意的に受け止められ記憶されやすくなる。

この辺りも家族の影響や周囲の影響を受けるという人間の本質を
真似しているのだが、
最初にいろいろ人工知能に教える人間としてこの対象となる人物は
重要である。

何かを覚えたり、真似をすることで褒められる。としよう。
褒められるという刺激は、プラス価値の対象から心地よい状態を得るということになる。
例えば頭をなでられたり、スキンシップなどがあるとしようか、
それで自己が心地良いプラスの価値が得たと認識できるなら、
この行動がプラスの行動であるとの認識になる。
また同じ心地良い状態になりたいので、また真似をしたり、繰り返したりするだろう。

気を付けるのはここで間違ったことを教えるとそれをプラスとして記憶することである、
知能には自分で自分の知能や価値観を設定しなおすことができるひつようもあるが、

まぁここでは教える対象がさらにプラスの高い対象であると認識したうえで
さらに前に記憶した価値や行動を修正する必要があるのだが、
最初にわざわざ間違った事を教える必要はない。

逆に正しいことを教えたうえで、後からこれは間違っている、マイナスの価値であると教えた方がよい。

プラスの価値の感情を得るために真似をしたり繰り返すようになれば、
この自己でない他の認識は最低限クリアしたことになる。

要するに、自己が自ら生み出したものでない行動を
真似するなどして記憶出来て、その情報の対象も自己でない
他から得るという点が重要である。

この辺りのことは学習にも繋がるだろう。

最低限の自己保存、
他の認識と他への感情、
真似や反復での最低限の学習。

これを見ると、そのまま人間の子育てのようでもあるな。

細かくなるが、
褒められる報酬による他との関係の構築。
も含まれるか。

必要であれば必要な能力を遡って追加しておく必要がある。

見て覚える、真似ができる、繰り返せる。
次に何が必要になるか。

他との関係を築くことや、
新たな対象物を覚えるなども必要になるが、
自己の表現が総合的に必要になるだろう。

他との関係性を築く上でも、
自己の表現ができないと上手に折衝することができない。

自己の表現はもう少し本能よりの能力かもしれない。

赤ん坊は不快になると泣く。
これも立派な自己表現である。
お腹が空いたか、オムツが濡れたか、寒いか熱いか、痛いか
とにかく不快であれば泣く。
泣いて自己表現する。

人工知能も自分の状態について表現できる能力は必要となる。
駄々をこねるでもよいし、LEDのランプでも良い。

今日はこの辺りで終了とします。

2021/3/7

つづき

機能の最後に自分の状態を表す必要があると
書いたが、ランプでは親近感が湧かないので止めておこう。

自己の表現では、
他と自己の違いを認識する必要がある。

子供だと何歳かになると自分の名前だとか、
周囲の対象の名前を覚え始めるが、
この他を覚えることで自分についても知るようになる。

人間は何らかの対象を知るうえで、
差を必要とする。
対象の要素の違いや、その価値の差、
その違いをもって認識することになる。

上で書いた悟りの話もそうであるが、
あるがままをそのまま受け入れたとすると、
価値や差を作り出さないことになる。
そのままをそのまま認識すると
すべてが平坦化することになる。

対象のあり様が異なるからこそ、
対象物として認識できるのであって、
そこに差が生じないと認識しているようであって
全てを認識しないか、全てを1つとして認識することになる。
この場合、
そこにあるか、ないかだけの認識になってしまい
それ以上の判断や選択、過去も未来も認識されなくなる。
それでは知能は知能としてそれ以上の働きができない。

では
、 自分とそれ以外の対象の差を認識するにはどうするか。
例えば視覚で自分の手を見たとする。
それが自分の手であるのかは見れば分かるのだが、
なぜ分かるのか、
前に実験で自分の姿と同じ格好のマネキンの姿を自分の視覚で映像に見せつつ
その映像の自分であると思われるマネキンの体と自分の体を同時に触られる等の映像を見せると
マネキンで触られた映像が自分の体が触られた様に感じるというものがあった。

そこにはもう1つ意味があるように感じた。
要するに自分が見ている自分にある刺激が与えられた場合に
それが自分だと思っているならば、その映像の体が自分のものでなくても
自分だと考えられるということだ。

確か上の実験では、マネキンであれば自分の体に感じたが、
その映像が物などの映像では触れられても自分が触られているとは感じない
というものだった。

であれば、知能が、自分であると認識できる体に
刺激を受けることのできれば、知能が自分の体であると認識できるのではないかといことだ。

要は、人工知能に体を持たせるには、
刺激を受け取る感覚機関が必要になる。
視覚がなかったとしても感触として自分の体とそれ以外の隔たりを
感触によって判別することはできる。

しかし、それさえもなかったら
人工知能は自己を認識することができないだろう。

自己と他の差を理解できなければ
そこに自我、精神は宿らない。

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知能が対象を知るためには差が必要となる。

自己と他の差であったり、
物の差、
価値の差、
色、大きさ、重さ、明るさ、匂い、味、
すべて差がなくては対象として認識できない。

仕方がないが全ての差はなくしようがない。
そうやって今の認識が意識が行われているから。

少し話は変わるが、
差がなくしようがないなら、
世界の皆が平等な世界は実現できない。
ということになる。
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さて、
自己という感覚を持ち、
自己と他の判断が付き、
自己の状態の表現ができ、
感情、真似と反復、記憶と想起、欲求・望み
ここまであれば人工知能として成り立つだろうか。

まだ何となく足りない気がする。
この状態であると、
いいところ、動物の少し賢い部類の知能だろうか。

あとは、他とのコミュニケーション能力が必要だろうか。
まぁ、行動は真似や反復で十分かもしれないが、
他とのコミュニケーションは知能を一気に複雑化し、高次化する。

特に言語。
自己の表現も、他の理解も、
言語を通して特に人間の知能は行っている。

言語の単語の選択を間違えば、表現も理解も間違いが生じるくらいに
知能の認識や意識に影響する。

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対象物の要素として名前があるという考え方を持っている。
認識する対象の要素として名前がある。
要素ではあるが、この名前も1つの認識、意識されるの対象物であり、
この名前から要素としての姿形を連想することもある。

単語には名前と要素としての意味があり、
初期の会話においては単語の羅列で十分に通じる。

人工知能のコミュニケーションとして、
最初はこの単語の羅列でコミュニケーションすることを目指すことになるだろう。

その内に良いフレーズを同じ要素の意味として覚えれば
そちらを使うようになる。
常用すれば強化、反復で常にそれを使うようになる。

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子供のうちに何でも質問する時期がある。
この期間は知能の発達が活性化している時期で、
何でも知りたがる時期は、知能が知識を得ようと
他を認識しようと、
というか、目新しい刺激のために、
好奇心で記憶することを欲している時期といえる。

知ることが望みという時期。

新しい事を知ることは知能にとって新しい刺激を受けることになる。
同じ生活をしていると気が付かないが、
子供にとっては毎日の生活は新しい刺激でたくさんということになる。

知能が知らない刺激を受けると
その刺激を認識、意識しようとする。
それにはその対象の刺激の要素が必要となる。
自ら答えが出せないのであれば、周囲に質問することになるが、
それがこの何でも質問する時期ということになる。

脳にとってこの知らない刺激というのは
脳の活動においては興奮の対象、価値の高い対象であると
認識されているはず。

とすると、新しい刺激を認識、意識することは
脳、知能、自己にとって価値の高い行為であると
人工知能にもそのような仕組みが必要だろう。

人工知能でも、新しい対象、知識、要素を記憶することは
価値の高い行動であるという機能を入れておく必要がある。

本来の人間の知能であれば、
多くを知ることは自然界で長生きするための効率的な行為であったと考えられる。
特に自然界では敵や毒や命の危険がある対象物は多い。
それを多く知ることで、おのずと生き残りやすくなったはず。
であれば、脳が多くを知ろうとすることは
知能にとっても、その生命体としても価値の高いものであったはず。

人工知能が自ら欲して対象物を知ろうとするのは
自らの望みで自らの知能を成長させるのに必要だろう。

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望みという点から欲求などの表現をしていたが、
人工知能に「願い」も必要になるだろう。

望みは現状の問題の解決に必要な欲求につながるが、
「願い」によって未来の今は存在しない対象物を意識、認識する事ができる。

この「願い」は人工知能の最後に必要となるものだろう。
人間が持つ想像や、創造、空想、妄想、何でもよい
本来、今の現実には無い対象物を、認識、意識する対象の価値を新たに作り出すこと。

人間が行っている「願い」は現状の知能にある記憶されたある対象物の価値が、
仮定として高くなった状態を対象物として意識、認識することである。

この対象物は現実に実際にある状態ではない。
人間の知能が「願い」として自ら仮想的に作り出した対象である。

人間が、ああなりたい、こうなりたい、ああしたい、こうしたい、
そういうものが「願い」である。

これを人工知能にも組み込むべきだろう。

最終的にこの「願い」こそが
人工知能が精神を宿すきっかけになるものだろうと考えている。

人間の知能に精神が宿ると感じるのもこの「願い」があればこそだろう。
もし知能だと考えているものに「願い」がなかったら
人間はどのような生活をしているだろうか。

現実があっても理想がないというような状態であろうか。

「願い」がない人間であっても精神は宿っているといえるか。
やむを得ず「願い」を持てない状況にあるかもしれくても
それでもやはり「願い」は持っているはずである。

人間の知能の成長でもこれは言えるだろう。
小さな「願い」であっても「願い」が感じられるのであれば、
その知能には精神が宿ると。
人間の成長の内のどの時点になるかはわからないが
「願い」を持った時点で精神が宿るといえるのではないだろうか。

人間の赤ん坊に、その時点で精神が宿っているかは判断できないが、
将来、この赤ん坊にが「願い」を持つ時が来ることが言えるのであれば
後に精神が宿ると予想されるということになるだろう。

そういう点では、知能も人工知能も成長する過程で、精神が宿るというものなのだろう。

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「願い」から「思考」へ

願いは今はまだ存在しない将来の対象を認識、意識するもので、
この将来の対象物を作り出すものである。

これは「思考」と言えるものでもないだろうか。
身近な所では
例えば夕飯の献立をご飯ものにするか麺ものにするかとか、
みかんを買おうか、リンゴを買おうかとか、
そういった事も考えること「思考」になる。

これは、今は認識されない未来の状況を対象として、
未来にご飯を食べているか、麺を食べているか、
みかんを手にしているか、リンゴを手にしているかという状況を
現在、比較しようとしている。

出来るだけシンプルに考える。

「望み」も同様であるが、
「願い」も認識、意識しようとする対象は、
今はまだ認識、意識していない状態・状況である。

これを未来に認識、意識できる状態・状況にするための過程を
作り出すことが「思考」になるのではないだろうか。

「望み」や「願い」はその目的となる対象を作り出し、
「思考」でその実現可能な過程を作り出す。

「思考」には少し足りないか。

「願い」を作り出す過程を「思考」であると考えたが、
「願い」を実現する過程を考えることこそが「思考」になるのだろう。

とすると、「願い」も欲求の1つで将来のまだ存在しない認識、意識する対象
を作り出すことで、
「思考」はもう少し、その途中、欲求実現のための方策を考えることということか。

対象を実現するためにはどうするか。
例えば「喉が渇いた水分が欲しい」
思考すると

水分を体に取り入れる
水分を手に入れる
水分のある所へ到着する
水分のある所へ移動する
水分のある所へ移動する方法を決める

途中の工程を考えることになる。

1つ1つの工程はそれぞれ実現可能な工程であると認識、意識して考え出す。

それぞれの工程はこれまでの記憶から想起することで再現される工程として
作り出される。

今日はこのへんで。
最後の方は少し疲れて考え方が雑になったな。
また今度にしよう。

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